4 薔薇
「ど、どうかしたの?」
何が起きているのかまるで理解ができず、私はただ目を瞬かせながら、目の前に立つ彼の顔を見つめることしかできないでいた。
戸惑いを隠せないまま彼を見上げていると、エリオットはどこか不機嫌そうに眉を寄せた。
彼の手が、驚くほど熱かった。
「いつからそうしていたんだ」
「え……?」
叱るような言い方ではなく、吐き出すように告げたのは、間違いなく私の夫だった。
疑問を口にするよりも先に、エリオットは私の手を取ると、そのまま私の手を引いて邸宅の中へと歩き始めた。
困惑したまま、特に抵抗する理由も見つからず彼の後を付いて行く。
どうしたの? 今朝あった時に、今日は仕事で王室へ行くと言っていたじゃない。それなのにどうしてまだ家にいるの?
そう問いかけることもできず、私はふと視線を上空へと向けた。
空には、紫と青が混ざり合い、宝石を散りばめたような夜空が広がっていた。
「あっ、奥様!」
エリオットに手を引かれるまま邸宅の中へ入ると、玄関には大勢のメイドたちが、何やら不安げな顔をして集まっていた。
その中心にいる見慣れた姿を見つけ、私はすぐに名前を呼んだ。
「エレナ、何があったの? どうしてみんな玄関に集まっているの」
慌てて私のもとへ駆け寄ってきたエレナに、すぐさま疑問を投げかける。
しかし、彼女は相変わらず不安そうな表情を浮かべたまま、私を見つめるばかりだった。
「黙っていたら分からないじゃないの」
「そ、それは奥様が……」
「いつまで話しているつもりだ。すぐに入浴の支度をしないか」
エレナの言葉を遮ったのは、エリオットだった。
彼は珍しく、使用人を咎めるような口調で告げた。
「申し訳ありません、旦那様。さあ奥様、参りましょう」
何が起きているのかまるで理解ができず、私はエレナとエリオットの顔を交互に見つめた。
そんな私の様子に気が付いたエレナが、すぐにいつもの穏やかな笑みを私に向けて優しく付け加える。
「奥様の大好きなローズティーをご用意いたしますね」
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「美味しい……」
私室へ戻り、ドレスからガウンに着替えた私は、エレナが淹れてくれた紅茶を飲みながら入浴の準備が整うのを待っていた。
エレナは浴室へ向かう前に、暖炉に薪をくべ、火打石で火を起こしてくれた。それから私の着替えを手伝い、冷えた身体を気遣うように紅茶を用意してくれたのだ。
ティーカップに口をつけると、熱い紅茶が唇に触れた。
そこでようやく、私は自分の身体が氷のように冷え切っていたことに気がついた。
「奥様、支度が整いました。どうぞ」
エレナはそう言うと、私に向かって手を差し伸べた。
私はその手を借りて立ち上がると、彼女のエスコートを受けながら、ふらふらとした足取りで浴室へと向かった。
歩きながら、今日の出来事を思い返してみる。
昼間のティーパーティーを終えたあと、私は庭園で少しだけ休んでいた。
それから……それから、どうしたのだったか。
なぜか、突然エリオットが目の前に現れた時、空は既に暗闇に染まっていた。
いったい、どれくらいの時間が経過したのだろう。
私は努めて冷静になり、今日一日の出来事を順番に思い返そうとした。
真っ先に頭に思い浮かんだのは、エリアナ・ルドベル伯爵夫人のことだった。
愛が何だと言っていた彼女は確か……。
『夫人の母君のお話は、私もよく存じ上げておりますから』
エリアナが私に向けた、憎悪に満ちた眼差し。
あの視線を私は誰よりもよく知っている。
私の……お母様。
「奥様の大好きな薔薇の花を今日はいつもより多めに浮かべておきましたよ。香油が混ざった石鹸もご用意したので、きっとリラックスできるはずで――」
大理石でできた浴槽には、真っ赤な薔薇の花びらがいっぱいに浮かべられていた。
その赤が、母の熟れた朱色の瞳と重なる。私を睨みつけたとき、血のように赤く染まって見えた、あの眼差しと。
『覚えておきなさい。お前は生まれた瞬間から私を不幸のどん底へと突き落とした。子は母を幸せにする存在であらなければならないのに……。そんなお前に、幸せな日々は決して訪れない。私が絶対に許さない。私は何があっても、お前を許したりしない』
長く伸びた爪が肩に食い込む。痛みと恐怖に震える私に、母は何度も恨みの言葉を吐き出した。
決して私が幸せになることを許さないと。たとえ自分が死んでも、私を永遠に呪い続けると。
「奥様!?」
いつもなら、疲れた心を癒やしてくれる薔薇の花びら。それが今だけは、この世の何よりも恐ろしい存在のように感じられた。
エレナの悲鳴のような声が聞こえたときには、私は浴室の隅へと情けなく座り込んでいた。
立ち上がれなかった。震えが止まらなかった。
頭の中に過去の記憶が溢れ出し、どうしても身体を動かすことができない。すぐ傍でエレナが必死に何かを言っているのに、その言葉はまるで耳に入ってこなかった。
バカ、しっかりしなさいよ、私……。
こうなってしまうと、もう自分の意思ではどうにもならなかった。ただただ、時間が過ぎるのを待つしかない。
私は目を伏せ、何度も自分に言い聞かせた。
しっかりして。ここは公爵家じゃない。私はもう子供じゃない。結婚して、侯爵夫人になったのよ。
もう、お母様は死んだのよ……。
「……私ったら、どうかしていたみたい」
やがて、どうにか顔を上げた私は、必死に口角を吊り上げ、柔らかく微笑んでみせた。
主人として、メイドである彼女に心配をかけるわけにはいかない。
明るく、穏やかに、貴婦人らしく。
「心配をかけてごめんなさい、エレナ。明日も朝早いんだから、早く眠らないといけないわ」
何とか立ち上がり、ガウンを脱ぐと、私は浴槽の中へと身体を沈めた。
温かいお湯が、冷え切った身体を少しずつ温めていく。
しかし、胸の奥に溜まった氷のように冷たい何かが解けることはなかった。
私は目を伏せ、笑みを保つことだけに集中した。自分自身の感情と意志を切り離し、貴婦人としてふさわしいように振る舞う。
それが私の得意分野。だから、きっと大丈夫。
私は何度もそう自分に言い聞かせながら、湯船の中で肩を丸めた。




