5 侯爵夫人
若い頃からルペルシア侯爵家に仕えているメイドのエレナは、侯爵家の中で唯一、侯爵夫人の傍にいることを許された使用人だった。
あれほど明るく、人好きのする笑みを浮かべる侯爵夫人が、傍に使用人を置きたがらない。
その事実を不思議に思っていたエレナだったが、そうした疑問を抱いていたのも、最初のうちだけだった。
「奥様、お客様たちのお見送りが終わりました。皆さま、とても満足そうにお帰りになりましたよ」
客人たちが帰るための馬車の手配などを任されていたエレナは、全員を見送り終えると、庭園で花を眺めているはずの主人のもとへ向かった。
そこは、侯爵が邸宅の中でもとりわけ手をかけている庭園だった。
王宮の庭園にも引けを取らないほど美しく整えられたその場所を、侯爵夫人は心から愛していた。
時間が空くと決まって庭園の隅にあるベンチに腰を下ろし、咲き誇る花々をじっと眺めているのだ。
今日もまた、客人たちを見送るよう指示を受けたときと同じ場所に、侯爵夫人は座っていた。
しかし、近づくにつれて、エレナは彼女の様子がおかしいことに気がついた。
「……奥様?」
人形のように固まり、遠くを見つめながら薄っすらと笑みを浮かべている。
その姿に、エレナは思わず足を止め、わずかに後ずさった。
そろそろ日が落ちようとしていた。オレンジ色に染まった庭園の中、侯爵夫人の淡いピンク色の髪は夕日に照らされ、まるで黄金のような煌めきを放っている。
この世のものとは思えない、まばゆい美しさだった。
しかし、その瞳には何ひとつ感情が浮かんでいないように見えた。
表向きには至って穏やかな笑みを浮かべているというのに、まるで心だけがどこか遠くへ行ってしまったかのよう。
秋の庭園は、日が落ちるにつれて冷え込んでいく。それでもエレナは、ベンチに腰かけた侯爵夫人の身体に触れることができなかった。
使用人である以上、主人の許可なく身体に触れることはできない。
そのうえ、目の前にいる彼女はあまりに美しく、繊細なガラス細工のようだった。少しでも触れれば、そのまま粉々に砕け散ってしまいそうなのが、酷く恐ろしい。
ただでさえ彫刻のように白い侯爵夫人の顔は、時間が経つにつれて、ますます青ざめていく。このまま放っておけば、いつか本当に消え入ってしまうのではないか。
昼間はよく晴れていて、お茶会を開いたり、庭園を散歩したりするにはちょうどよい気温だったが、日が落ちれば一転して冷え込む。
これ以上身体を冷やしては、体調を崩してしまう。
エレナは何度も繰り返し侯爵夫人に呼びかけた。それでも、彼女は一向に反応を見せなかった。
少し離れた場所でどうしたものかと頭を悩ませていると、異変を感じ取った他のメイドたちが、次々とエレナのもとへ集まってきた。
「奥様はどうしてしまったというの。エレナ、あなた何か奥様に失礼な真似でもして怒らせたの?」
「しっかりしてちょうだいよ。奥様はあんたしか傍に置かないんだから、あんたがしっかりしないと。私たちが行くわけにもいかないでしょう」
「分かっています。怒って言うよりも……いえ、何度も声はかけましたが、少しも反応を見せてくださらなくて、私もどうしたらいいのか」
いつのまにか庭園に集まったメイドたちは、未だにベンチに座ったままの女主人を、不安げな眼差しで見つめていた。
公爵家出身の花嫁を、ルペルシア侯爵家の人間は皆、心から祝福していた。
帝国でも指折りの高貴な家柄に生まれた方でありながら、決して傲慢に振る舞うことなく、誰に対しても親切で、いつも明るい笑顔を絶やさない。そんな彼女のことを、皆が心から慕っていたのだ。
ヴィオレッタ・ルペルシア侯爵夫人。彼女は、文句のつけようがないほど完璧な貴婦人だった。
時折、まるで身体から魂が抜け落ちてしまったかのように、何の反応も示さなくなる一面を除けば……。
集まったメイドたちがどうしたものかと頭を悩ませていた、そのときだった。
玄関に一台の馬車が到着し、そこから降りてきた人物の姿を目にした途端、メイドたちは一斉に安堵のため息をついた。
「そこで何をしている」
現れたのは、ルペルシア侯爵家の当主、エリオットだった。
不自然に集まっているメイドたちを訝しげに見渡した彼は、すぐにその中心にいたエレナへと冷たい視線を向けた。
「侯爵夫人の侍女であるお前が、なぜ彼女の傍にいない?」
「旦那様、それが……」
エレナはすぐに、庭園の奥へと視線を向けながら事情を説明した。
黙って話を聞いていたエリオットは、ヴィオレッタが未だに庭園にいると知ると、最後まで聞くことなく足を踏み出した。
「全員、屋敷の中に戻れ。彼女は俺が連れてくる。普段どおり、何事もなかったかのように振る舞うんだ」
「か、かしこまりました」
エリオットの登場によって、メイドたちの不安もいくらか和らいだようだった。
侯爵夫人があのような姿を見せるのは、これで二度目だった。
侯爵夫人の出自や、彼女について囁かれている噂を思えば、何となく事情を察することはできそうだった。けれど、エレナはすぐに考えるのをやめた。
自分に任された役目は、主人の身の回りのお世話をすることだけだ。
主人の事情にまで踏み込むなど、あってはならない。
何より侯爵夫人は、エレナがそうした一線を守る人間だと分かっているからこそ傍に置いてくださっている。
そう考え直したエレナは、すぐに他の使用人たちへ指示を出した。
紅茶を淹れるためのお湯を沸かし、何枚ものブランケットを女主人の私室へ運んでおくようにと伝える。
そうして玄関の前に立つと、必死に不安を拭い去り、エリオットがヴィオレッタを連れて戻ってくるのを待った。




