3 夢物語
私とエリオットが結婚したのは、彼が十七歳、私が十六歳の時。
あまりにも若くして夫婦となったことに加え、結婚してからしばらくの間、私たちが白い結婚を続けていたこともあり、社交界で面白おかしく噂されているのは重々承知していた。
他家の当主たちには親しげな笑みを浮かべ、軽やかな会話術で人々を魅了する若き侯爵。その一方で、実の妻に対しては驚くほど冷淡な態度を崩さないのだから、周囲が面白がるのも無理はないのだろう。
エリアナ・ルドベル伯爵夫人。
子爵家の出身で、かつてエリオットに好意を寄せていたらしい。
彼の夫であるイゼク・ルドベル伯爵は愛人に夢中になっているという話で、夫婦仲は決して良好とはいえなかった。
もちろん、彼女の事情など私にとってはどうでもいいことなのだけれど。
母が亡くなり、侯爵夫人となるまで、私は表立って人前に姿を現すこともなく、社交界にもほとんど参加してこなかった。
でも、だからといって貴族社会の動向に疎いわけではない。
むしろ、人前に出る機会がなかったからこそ、私はできる限り多くの情報を頭に叩き込んできた。
重大な政治の動きから、貴族同士の勢力争い、果ては貴婦人たちの間で囁かれる些細な噂話まで。
だから、エリアナが何を考え、どんな思惑を抱いて私に近づいてきたのかも、ある程度は察しがついていた。
「えっと……私を心配してくださっているのですよね? 夫人はお姿だけでなく、お心までお美しいなんて。本当にありがとうございます」
胸の前で両手を合わせ、心の底から感謝しているかのような笑顔を浮かべると、エリアナは顔をしかめているのか微笑んでいるのか曖昧な表情をした。
そんな彼女の顔を、私は目を輝かせながら見つめた。
じっと向けられる冷ややかな視線に、それでもバカみたいにヘラヘラと笑ってみせる。
「時折私は、侯爵夫人を見るとおかしいのは自分の方なのかと疑ってしまう時があります。愛されていなかったとはいえ、公爵家の一人娘に生まれれば良家に嫁ぐことができるなんて羨ましい限りですわ」
ふむ。今度は、あまりに直球に仕掛けてきたわね。
あれだけ善意そうに悪意を隠していたのに、あまりに私がバカすぎて嫌気がさしたのかしら。
私が夫に愛されていない。
……だから?
だから何だっていうの? 私と夫の話に、どうして無関係なあなたが入ってくるわけ?
私よりもずっと前からエリオットを知っているからどうしたというの。無関係のあなたが、妻の私に意見するのは、なぜ?
「どうか誤解されないでください。私は侯爵夫人を心から心配して言っているのです。だって、そうじゃないですか。社交界でお見掛けしても、いつも夫人が一方的で、侯爵様が積極的にお話しされているところを見たことがないなど、おかしいでしょう」
「伯爵夫人、それは――」
「いいのです、仕方のないことなのですよ。侯爵夫人は公爵家のお姫様だったんですもの」
私の言葉を遮り、意地悪く微笑んだエリアナが、私の一番の地雷に踏み込んだ。
「夫人の母君のお話は、私もよく存じ上げておりますから……」
彼女が母の話題に踏み込んだ瞬間、胸の奥で何か冷たいものが広がっていくのを感じた。
『すべてお前のせいよ、全部全部お前の……!』
エリアナの瞳で炎のように燃え盛っているものは、よく見ると母が私に向けていたものとよく似ている。
確かな憎悪。私を憎み、恨んでいる眼差しだった。
私はゆっくりと目を伏せると、彼女に向かって柔らかく微笑んだ。
「今日はとてもお喋りなのですね。伯爵夫人のあなたが、私の言葉を遮るようなことがあるなんて」
彼女はぴたりと口を閉ざし、驚いたように目を見開いた。
まさか、いつも黙って聞き流している私が言い返してくるとは、夢にも思っていなかったのだろう。彼女の表情から、先ほどまでの余裕がすっかり消え失せていた。
「誰にでも選択を誤ることはあります。私、こう見えて、なかなか慈悲深い人間なんです。ですから、たとえ誰かが愚かな過ちを犯してしまったとしても、一度くらいなら笑って許して差し上げることができます」
私は顔にかかった髪をそっと耳にかけながら、できる限り柔らかな口調で告げた。
「ただ、面倒なことにいつまでも時間を使っているわけにはいかないのです」
私はただの人間。少しだけ自尊心が低く、利益のためならば自分を下げることも厭わない、貴族には少しだけ珍しい部類の人間。
そう、私はただの人間なのだ。
限度を越した発言を繰り返されると、腹が立つのが普通というもの。私にだって我慢の限界というものがある。
これ以上、このマヌケな女の話を聞いていて私に利益があるとも思えないし、ヘラヘラとバカみたいに媚びへつらった笑みを浮かべることにも疲れてしまった。ふう……。
「私はただ侯爵夫人のことが心配で……いいえ、出過ぎたことをいたしました」
きまり悪そうに目を泳がせるエリアナに私は笑いかけると、すぐに背を向けて他の客人たちの元へと歩いて行った。
永遠の愛。夫から永遠の愛を誓われたとしても、私はその永遠がいつまで続くのかと悩み、悩んでは悩んで、そのまま朽ち果ててしまうことだろう。
愛や恋などと、ロマンス小説の読みすぎなのだろうか?
私たち貴族社会を生きる女にとって、そんなものはくだらない夢物語だろうに。
そう、くだらないものなのよ。
愛なんて、この世に存在しない方が合理的に決まっている。愚かな感情に振り回されたところで、最後に待っているのは悲しい現実だけなのだから。
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不満げな表情のまま去っていくエリアナと、気まずそうな顔をした他の貴婦人たちを見送ったあと、私は庭園のベンチに腰掛け、しばらくぼんやりと空を眺めていた。
私が夫から愛されていない。
アハハ、そんなの当然でしょう?
私は、親が子に与えて当然の無償の愛を得ることが出来なかった異質な存在。
血の繋がった実の親からさえ与えられなかったものを、結婚という契約で結ばれただけの他人に求めるなど、あまりに傲慢だろう。
愛を知らない私が、誰かを愛することはできない。
私には、夫を愛することはできない。
自分が与えられないものを、他者に求めてはいけないの……。
「ヴィオレッタ」
不意に名前を呼ばれ、私は弾かれたように顔を上げた。
「……エリオット?」
そこにいたのは、仕事に出かけたはずのエリオットだった。
彼は悠々とした足取りで歩いてくると、その手を伸ばして私の頬へと触れた。
「ど、どうかしたの?」
何が起きているのかまるで理解ができず、私はただ目を瞬かせながら、目の前に立つ彼の顔を見つめることしかできないでいた。
戸惑いを隠せないまま彼を見上げていると、エリオットはどこか不機嫌そうに眉を寄せた。




