2 愛されていない
「朝ですよ。起きてください、奥様」
「……おはよう、エレナ」
「おはようございます、奥様。さあ、急いで支度を」
まだ半分夢の中にいる私の身体を、エレナは容赦なく起こして椅子へと座らせた。
昔から傍に人を置くのが苦手だった私は、身の回りの世話のほとんどを彼女一人に任せている。
この恐ろしい世界で、心から信頼できる人間がそばにいてくれるというのは、どんな高価なものにも勝る価値がある。私のような人間は、特に。
そんなことを考えているうちに、エレナはあっという間に支度を整えてくれた。
爽やかな水色を基調としたドレス。腰まで伸びた長い髪を後ろへ流し、耳のあたりに真珠と黄金をあしらった髪飾りが留められている。
エレナに礼を告げた後、私室を後にする。
廊下を進み、いつものようにダイニングルームへと向かうと、そこにはすでに夫のエリオットが席について、私を待っていた。
大きく開け放たれ窓から、朝の爽やかな風が吹き抜けている。
テーブルには、毎日欠かさず手入れされている美しい花が飾られ、甘い香りが部屋いっぱいに漂っていた。
静かに向けられる青色の瞳に、私はいつものようににっこりと笑って声をかけた。
「おはようございます。今日もいい朝ですね」
私の挨拶に、エリオットは「ああ」と短く答えただけだった。
いつも通りの日々。
痛みも苦しみもない、平穏な毎日。
私がこの家に嫁いできてから、朝食だけは欠かさず夫と共にしていた。
私が席につくと、待ち構えていた使用人たちが、次々と食事の準備を始める。
料理が運ばれてくる気配をぼんやりと眺めていた私は、彼の視線が私に向けられていることに気づき、慌てて笑顔を向けた。
「ごめんなさい、待たせてしまいましたよね。今日は屋敷に貴婦人たちを招く予定があったので、いつもより入念に準備をしてもらっていたんです」
「君が人を招くとは、珍しいな」
「え……」
どうしちゃったのよ、何か変なものでも食べたの?
まさか、あなたの方から話しかけてくるなんて。
普段、私たちの間で交わされる会話はごくわずか。
こちらから話しかければ、彼は必要最低限の返事をしてくれる。
それがいつものことだったから、彼の方から話題を振ってくるなんて思いもしなかった。
「あ、あなたが熱心に管理している我が家の庭園が社交界でも噂になっているみたいなの。この前に参加した宴会で、ぜひ伺いたいと言ってくださって……執事長を通してあなたに確認を取ったと聞いたのだけれど、ダメだったかしら?」
「いや。君の好きにすればいい」
「……それなら良かったわ。ありがとう、エリオット」
なぜだか冷や汗まで滲んできて、私は誤魔化すように目の前へ運ばれてきた料理に手を伸ばした。
落ち着かない気持ちを押し隠すように、次々と料理を口へ運んでいく。
その後は特に会話もなく、ただ互いに食事を進めるばかりだった。
やがて、私よりも先に食事を終えたエリオットが席を立ち、そのまま仕事へ向かうためにダイニングルームを出ていった。
彼の姿が見えなくなってから、私はふと、目の前に置かれた花瓶へと視線を落とした。
そこには鮮やかなピンク色の薔薇が美しく咲き誇っていた。艶やかな花びらは朝の光を受けて、いっそう鮮やかな色彩を放っている。
私はしばらくの間、その花をじっと見つめていた。
時折、胸の奥から込み上げてくる恐怖や焦りも、こうして美しい花を眺めていると、不思議と少しずつ和らいでいく。
「……バカみたい」
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「実に素敵な庭園ですわね、侯爵夫人」
「侯爵様が王室の庭師をわざわざスカウトされたとか。前侯爵夫妻が亡くなられてから早くも五年の月日が経ちますが、仕事だけでなく家の管理まで徹底されていらっしゃるとはすばらしいですね」
「さすがですわ。まったく、うちの夫にも見習ってほしいくらいです」
貴婦人たちが扇子で口元を隠しながら、談笑する中、話題は夫への愚痴へと変わっていく。
私はいつものように柔らかく微笑んで一生懸命に相槌を打った。
貴婦人たちの集まりは、決して仲良しこよしのお茶会ではない。
ここは情報が行き交う場であり、侯爵夫人としての仕事の一環でもある。
そして、この場において私の役割は明確だった。
身分は高いが、思慮が浅く、ただ愛想よく笑っているだけの女。
人形のように扱いやすく、害のない存在。
つまり、頭の弱いバカな女というわけ。
彼女たちが私を見下して、噂の中心に持ってくるにはうってつけの存在。
私は公爵令嬢の頃から、その役回りに徹してきた。
人は、自分よりも下だと見下した存在を前にした時、極端に油断を見せるから。
鼻を高くして偉ぶったところで、利益なんて何一つない。プライドを高くして、何も得ることなく落ちぶれるよりは、ずっと賢い生き方だと思う。
恥じることなどない。私は始めから、地の果てを這いつくばって生きていなければならない存在なのだから。
円卓を囲んで茶を楽しんだ後、私たちは庭園を散策することになった。
色とりどりの花々や、枝の間を飛び交う小鳥たちを眺めながら、それぞれ思い思いに歩く。
私は微笑ましく彼女たちを見つめながら、足を進めようとした。
うーん、私の歩みを防ぐのが趣味な人間が一定数いるのは何故かしら?
「夫人、侯爵夫人。ちょっとよろしいでしょうか?」
「はい、どうされました? ルドベル伯爵夫人」
ニコッと爽やかに笑いながら私に声をかけてきたのは、先日参加した宴会の主催者、エリアナ・ルドベル伯爵夫人だった。
「改めて本日はお招きいただきありがとうございます、侯爵夫人。とても有意義なティーパーティーでしたわ」
「紅茶はお口に合いましたでしょうか? これでも一生懸命に準備してみたのですが、何か不足があったら遠慮せず仰ってください」
「不足だなんてあるはずありません。実に素晴らしい物でしたわ」
「本当ですか? そう言っていただけて安心しました。実は、皆さんに招待状をお出しした時から、ずっと緊張していたんです」
「まさか、夫人が緊張なさることは何一つありませんよ。まあ……夫人は令嬢の頃から、あまり私たちをお招きしてくださりませんでしたものね」
あら?
「公爵夫人の容態を考えれば、当然と言えば当然なのでしょうが……」
先ほどまで彼女の瞳には悪意の一欠片も見えなかった。
二人きりになる時を窺って、息を潜めていたというのだろうか。
私が実の母親と険悪な関係にあったことは、社交界では周知の事実だった。
母はそれを隠そうともしなかったし、本来なら社交界の中心に立つべき立場の私が主催の催しを一切行わず、参加も控え、ただ母の機嫌を伺って微笑む姿を見れば誰にだって察しはついた。
だから、こうして私に面と向かって今は亡き母の話をする者はいない。
……私に悪意を持つ者を除いて、だが。
「伯爵夫人の言うとおり、お母様は身体の弱い方でしたから。だから今、こうして皆さんをお招きすることができて、とても嬉しいです」
眉尻を下げて、善意に満ちた笑顔を浮かべる。
私はあなたに興味なんかないの。だからお願い、どうか私のことは放っておいて。面倒ごとに巻き込まないで。
「相変わらず可愛らしいお方ですね。私、以前から夫人とはゆっくりお話ししてみたいと思っていたんです。侯爵様とは幼い頃からの仲ですから、私にも何かお力になれるのではないかと思いまして」
そう言うと、伯爵夫人は慈悲深そうな笑みを浮かべながら、私の手を握った。
「侯爵様から愛されていらっしゃらない夫人が、あまりに可哀想で……」
彼女の若草色の瞳には、いつの間にか薄っすらと涙が浮かんでいた。
私のことが、心底哀れだとでも言いたげな眼差しだった。




