1 私の夫
「あそこまで夫君から冷遇されて、どうして平気に笑っていられるのでしょうか。私なら絶対に耐えられませんわ!」
「ご結婚されてから早くも三年が経たれるのに、未だに侯爵様が夫人に微笑まれているところを誰一人見たことがないなんておかしくありませんか?」
華やかな社交パーティーの会場、その一角に設えられたテラスで楽しげに噂話に花を咲かせる貴婦人たち。
彼女たちが話題にしている人物は誰かって?
それはもちろん、私、ヴィオレッタ・ルペルシア侯爵夫人のこと。
まあ、なんてお優しい方々なのでしょう。私のことをそこまで案じてくださるなんて。
だけど、私はむしろあなた方の方を心配してしまうわ。
仮にも身分が上の私を好き勝手に噂して、当人の耳に入るとは考えもできないの?
私でなければ、今すぐに罰していたかもしれないわよ。
つい先ほどまで、にっこりと親しげな笑みを浮かべて私を褒め称えていたというのに、ほんの少し席を外しただけでこの有様だ。
……ふう。
私は心の中で小さく息を吐き、何事もなかったかのように彼女たちの方へと歩み寄った。
「皆さん、一体何のお話をされているんですか?」
「侯爵夫人……! ま、まあ、随分と早いお戻りでしたのね」
「実は、今宵の主役であるルドベル伯爵夫人のペリドットを基調にしたドレスが素敵だと話していたところなんですの」
「そうだったんですか? 実は私も同じことを考えていたんです! あれだけ素敵でしたら皆さんの視線を釘付けにして当然ですものね」
私がそう言って柔らかく微笑むと、彼女たちは露骨に安堵した様子で媚びへつらうかのように笑った。
相変わらず、手に取るように分かりやすくて助かるわ。
「それでは私はこの辺りで失礼します。皆さん、また必ずお会いしましょうね!」
「はい、侯爵夫人。侯爵様によろしくお伝えくださいませ」
「私も侯爵夫人にお会いできてとても嬉しかったですわ。今度は是非侯爵邸にお招き下さいね」
少しの談笑を終えた後、私は形ばかりの別れの言葉を告げると足早にその場を去った。
ドレスの裾を軽く持ち上げて、宴会場を進む。
人々の隙間をかき分けて、一際目立つ男の元へと。
「あなた」
私の呼びかけに、彼はゆっくりと振り返った。
「こちらに居たんですね。宴に参加するのは久しぶりでしたから、少々疲れてしまいました」
艶やかな黒髪に、冷ややかな印象を与える碧眼を持つ男。
私の夫、エリオット・ルペルシア。
齢十七にして侯爵家の当主となり、まもなく二十歳を迎える若き侯爵だ。
エリオットと共にいた紳士達からの、男の談笑に割って入るなどなんて無礼な女だとでも言いたげな視線が刺さる。でも、それよりも鬱陶しいのは、貴婦人たちの哀れみと嘲笑の目。
はあ……まったく、どいつもこいつも。
「ねっ? 一緒に帰りましょう?」
ニッコリと笑みを浮かべて言った私に、エリオットは何も返事をすることなく、踵を返してすぐに会場の出入り口へと足を進めた。
すぐに後を追おうと足を進めようとした私の歩を止めたのは、先ほどまでエリオットと談笑していた紳士たちの一人。今宵の宴会の主催者であるルドベル伯爵だった。
「侯爵夫人も大変ですな」
「……はい?」
「侯爵様は仕事においては非の打ちどころがない完璧なお方ですが……少々、夫人に冷たくはありませんかな? 私どもには、あれほど気さくに話してくださるのに」
私は首を傾げ、変わらぬ笑みを浮かべたまま問い返す。
「ええ、まあ、そうですね。それで、私が大変というのは?」
「それは……ほら、言葉にせずとも分かるでしょう?」
「まあ、ルドベル伯爵ったら、おかしな事を言うのですね。言葉にせずとも分かるという、そのお考えには同意できますが、あなたが仰ることにはまるで共通性がありませんわよ」
終始にこやかな笑みを崩さずそう告げると、伯爵は引きつった表情で曖昧に笑った。
私は軽く会釈をして別れを告げると、今度こそ夫の後を追った。
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「それで、レイモンド家の令息はロレイス家のご令嬢との婚約を考えているそうです。両家が手を組むことになれば、恐らく継続している事業が――……」
馬車に乗り込んだ後、屋敷へと向かうまでの長い道のり。
対面に腰掛けたエリオットは、ただ一方的に話し続ける私を静かに見つめていた。
いつもと同じ。通常運転。
彼は一度も口を開くことなく、私に黙れと言う訳でもなく、ただ黙って私の話を真剣な眼差しで聞いている。
「侯爵様、到着いたしました」
そうして、御者の声で私の一方的な独演会はようやく幕を下ろす。
ここまでを含めて、いつものルーティンだと言えようか。
屋敷で待っていた使用人たちの手によって馬車の扉が開かれ、先に立ち上がったエリオットが外へ降りた。
それに続いて、私も立ち上がると、かけられた階段に足を乗せた。
「きゃっ!」
その瞬間だった。長時間立ち歩いた疲れが一気に表に出たのか、足から力が抜け、踏み出した足がもつれた。
しまった……!
そう思った刹那、私の右手首は誰かによって強く掴まれた。
引き上げられる感覚に、思わず目を見開く。
そのまま支えられるようにして、私の身体はエリオットの腕の中に収められた。
彼は一瞬だけ目を見張り、驚いたような表情を浮かべていた。
あ、危なかった……。
彼が手を差し伸べてくれなければ、今頃私は、夫と使用人たちの前で無様に転び、情けなく顔を打っていたに違いない。
「大丈夫か」
「あ、ありがとうございます……ごめんなさい、気をつけますね」
微笑みながらそう返事をすると、彼は先に邸宅の中へと入っていってしまった。
たまにこうして彼の方から話しかけられると、驚いてしまう。
せっかく素敵な声をしているんだから、もっと話したらいいのに。私が声を聞きたいと頼めば、願いを叶えてくれるかしら?
うーん、難しいかもしれないわね。彼女たちによると、どうやら夫は私を愛していないらしいから。
「奥様、お怪我はありませんか?!」
「ちょっと足を滑らせてしまっただけよ、侯爵様が受け止めてくださったおかげで何の怪我も負っていないわ」
エリオットがあまり話をしないことに、始め私は、彼が単なる話下手な性格なのかとは思っていた。しかし、それは私のただの勘違いだった。
だって、現に仕事の話をしている時は普通に話しているんだもの。
だったら、どうして?
うーん。
うーーーん?
うーん……。
「ううーん、疲れたあ……」
湯船に身を沈め、思いきり背伸びをすると張りつめていた身体の疲労がほどけていく。
私の細い金髪に、丁寧に泡を含ませているメイドは、侯爵夫人らしからぬ私の呻き声にくすりと小さく笑う。
「かなりお疲れのご様子ですね、ご入浴後にハーブティーをお持ちいたします」
「ありがとう。久しぶりに外出したから疲れてしまったみたい……」
浴槽いっぱいに浮かぶ、赤い薔薇を見つめながら私は小さく欠伸をした。
私の部屋は、いつも沢山の花で溢れていた。
薔薇を中心に季節ごとに選ばれた花々が飾られており、部屋中に甘い香りが満ちている。
浮かべられた赤い薔薇を、両手のひらですくって鼻へ近づけると、その甘い香りが疲れた心を癒してくれた。
伸ばした足を交互に持ち上げ、水面を揺らす。
小さな水しぶきが上がり、波紋が幾重にも広がって薔薇の花びらを押し流していく。
赤い花弁がゆっくりと散っていく様子を眺めていると……ふと、昔のことを思い出してしまった。
母の真っ赤な瞳の色を。
私を見つめ、憎悪に歪められた、あの目を。
社交界のご令嬢や貴婦人たちは、私が夫の関心を引けていないという事実に大ごとのように騒いでいたけれど。
そんなこと、私からすればどうってことのないことだった。
元から私は、愛されたことなど一度だってないのだから。
高貴なる公爵家の娘に生まれた私は、生まれたその瞬間から家族たちから疎まれて育った。
特に、数年前に死んだ母は私を酷く憎み、恨んでいた。
これは決して幼い私の勘違いなどではない。父も兄さんたちも、言葉にはしなかったが心の奥底では顔も見たくないと思っていたはずだ。
当然だ。私は母を殺したも同然なのだから。
難産の中、私を産んだことをきっかけに母は衰弱していった。
母は、大好きだった社交界にも参加できなくなり、家にこもることが増えた。
元々、父は公爵としての仕事が忙しく、家を空けることが多かった。年の離れた兄さん二人は隣国のアカデミーへ留学。
必然的に、家では母と私の二人きりなことが多かった。
青白い顔を厚化粧で隠し、血のように赤い瞳で私を睨みつけ鞭を振るう姿は、今でもすぐに思い返すことができる。
『なぜ、お前のせいでこの私が死ななくてはならないんだ! お前なんか産むんじゃなかった!』
何かにつけて理由をつけては、母は私に暴力を振るった。
皮肉なことに、母の生き写しのような容姿をした私は赤い瞳を除いて驚くほど母によく似ていた。
だからこそ、自分の居場所を私に奪われた気にでもなってしまったのだろうか?
私はお母様のことがとても好きだったから、私に手を上げることで少しでも活気を取り戻し、少しでも長く生きてくれればと心から願っていた。
決して愛されることは無くても、どれだけ疎まれ殴られようが、私が彼女の娘である限り、私はお母様を想わずにはいられなかったから。
しかし私が侯爵家に嫁ぐ丁度一年前、母が死んだ。
あっけなく、ある朝ぱたりと死んでしまった。寂しかったが、不思議と涙は出てこなかった。
結局、私たち親子の関係なんてそんなものだったのだ。
母の死の知らせを聞いて飛んで帰って来た父が真っ先に私に告げたのは、弔いの言葉などではなく、私の結婚が決まったということだった。
それこそ手をあげられたことは一度もなかったが、お父様の目に私は、娘だという前に愛した女を奪った存在としか映っていなかったと思う。
それでも慈悲深い父は、私に良き結婚相手を見つけてくださった。
今の生活は充実しているし、不満の一つもない。
嫁いでからも、父や兄たちは社交界で会っても私に声をかけてくることはなかった。
私も、何となく察して、なるべく関わらぬように距離を保つようにしている。それくらいしか、私にできる償いが思い当たらないから。
なるべく彼らの前に現れず、死んだネズミのように息を殺して生きることこそが、私にできる最低限の役目。
「少し風に当たってくるわ。すぐに戻るから、就寝の準備をお願いね」
「かしこまりました、奥様」
メイドにそう告げて、私は庭園に出た。
過去の記憶を掘り起こしてしまったせいで、混雑する頭を整えなければ眠れないと思ったから。
ぼーっとしながら適当に歩いていると、音色が耳に届く。
ああ、今日もまた弾いているの?
顔を上げると、夫の自室の窓が開いているのが見えた。
そこから流れ出すのは、優美なヴァイオリンの音色。エリオットが弾いているのだろう。
貴族の子供は勉学だけでなく音楽や様々な芸事を学んだりもするけど、彼は趣味の一環としてヴァイオリンを楽しんでいるのかしら。
時折、部屋の隙間から零れた音が耳に届くことはあったが、こうしてしっかりと聴くのは初めてだ。
どこか不思議な気持ちになりつつ、私はまた歩を進めた。
幼い頃……もう記憶も微かにしか残っていないほど、昔の話。
確かに私にも、淡い期待と憧れを抱いた経験があった。
だけど、とっくに成人を迎えてしまった今では、何かを期待することも、望むこともできない。




