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敵国に嫁いだ長女は振り返らない ~元婚約者ヴィンセルside~  作者: 鷹居鈴野


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9/10

婚約者(リュシオラ)

 婚約が公になった夜から、しばらくの間、俺は自分が世界でいちばん正しいことをした男だと信じていた。


 勲章も、封地も、継承権も惜しくなかった。差し出したものの重さより、隣にリュシオラがいる事実のほうが、ずっと重く、ずっと眩しかった。


 九年、待った甲斐があった――そう思っていた。


 *


 リディエンヌの婚約者だった頃、リュシオラは、彼女の目の前でさえ、俺と一緒にいられないことを、よく嘆いていた。人目を忍んで、悲しげに、俺の袖を引くようにして。


 リディエンヌと約束のある日に限って、リュシオラも会いたいと言い出すことが、何度もあった。そのたび、俺はリュシオラを優先し、リディエンヌとの約束は、当日になって使いを立てて断った。


 なのに、堂々と会えるようになった今、リュシオラが「会いたい」と言うことは、めっきりなくなった。こちらから会いに行っても、どこかそっけない。それどころか、会うことそのものを断られる日も、次第に増えていった。


「――今日は、少し、疲れましたの。おひとりで、お過ごしになって」


 人目を忍ぶ必要がなくなった途端に、素っ気なくなる女なんて、聞いたことがない。妙だ、と思わなかったわけではない。


 だが俺は、それを深く追及しなかった。


 照れているのかもしれない、と自分に言い聞かせた。長く待たされた恋が、いざ手に入ってみると、拍子抜けするほど落ち着いてしまう――そういうものかもしれない、と。都合のいい理由なら、いくらでも思いつくことができた。


 *


 ある晩、俺は熱を出して、寝込んだ。


 大したことのない、ただの風邪だった。それでも、婚約者に看病されるという場面を、俺はどこかで期待していたのだと思う。額に濡れた布を置いてくれるとか、手を握って眠るまで傍にいてくれるとか、そういう、他愛のない場面を。


 リュシオラ本人は、姿を見せなかった。代わりに寄越されたのは、侍女だった。


 かつての婚約者は、こんなときいつも、迷わず駆け寄ってきてくれたのに。


「リュシオラ様より、お大事にとのお言葉です」


「お嬢様にうつると、いけませんもの」


「……ああ、そうか」


 俺は、笑って誤魔化した。伝染る風邪の側に、婚約者を近づけたくないと思うのは、当然の気遣いだ、と自分に言い聞かせた。


 だが、扉が閉まる音を聞きながら、胸の奥に、小さな、冷たい隙間風が吹き込むのを感じた。


 九歳のあの子は、俺のために、自分の命の重さそのものを差し出したはずだった。今の彼女は、ただの風邪ひとつで、部屋の入り口から先に、踏み込もうとしない。


 同じ人間だとは、思えなかった。


 *


 待ち合わせの刻限に、リュシオラが現れなかったことがある。


 半刻近く、俺は東屋あずまやで、ひとり待ち続けた。


 ようやく姿を見せた彼女は、悪びれた様子もなく、街の商人と、楽しそうに言葉を交わしながら歩いてきた。整った顔立ちの、若い行商人だった。


「――遅かったな」


「あら、ごめんなさい。反物たんものの話が、盛り上がってしまって」


 それだけだった。詫びる声に、申し訳なさや誠意は、欠片もなかった。


 俺は、何かを言おうとして――ふと、口を噤んだ。


 似たようなことを、俺自身も、したことがあった。剣の稽古を言い訳に、幼い頃の婚約者を、何度も東屋で待たせたものだった。半刻、一刻と遅れても、あの子は一度も、ねた顔ひとつ見せなかった。「いいえ。ちょうど、今来たところですわ」と、いつも同じ嘘をついて、迎えてくれた。


 同じことをされて、俺はこんなにも、胸の内がざらつくというのに。


 あのとき、あの子は、どんな気持ちで、あの東屋に座っていたのだろう。


 その問いは、しかし、長くは俺の中に留まらなかった。リュシオラが、俺の腕に自分の腕を絡めて、甘えるように笑いかけてきたからだ。


「ね、拗ねないで、ヴィンセル様」


 その笑顔ひとつで、俺は、あっさりと、問いそのものを手放した。

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― 新着の感想 ―
この人、偽造の手紙とかリュシオラが姉を陥れたいがための醜態をすっかり忘れているのだろうか。
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