婚約者(リュシオラ)
婚約が公になった夜から、しばらくの間、俺は自分が世界でいちばん正しいことをした男だと信じていた。
勲章も、封地も、継承権も惜しくなかった。差し出したものの重さより、隣にリュシオラがいる事実のほうが、ずっと重く、ずっと眩しかった。
九年、待った甲斐があった――そう思っていた。
*
リディエンヌの婚約者だった頃、リュシオラは、彼女の目の前でさえ、俺と一緒にいられないことを、よく嘆いていた。人目を忍んで、悲しげに、俺の袖を引くようにして。
リディエンヌと約束のある日に限って、リュシオラも会いたいと言い出すことが、何度もあった。そのたび、俺はリュシオラを優先し、リディエンヌとの約束は、当日になって使いを立てて断った。
なのに、堂々と会えるようになった今、リュシオラが「会いたい」と言うことは、めっきりなくなった。こちらから会いに行っても、どこかそっけない。それどころか、会うことそのものを断られる日も、次第に増えていった。
「――今日は、少し、疲れましたの。おひとりで、お過ごしになって」
人目を忍ぶ必要がなくなった途端に、素っ気なくなる女なんて、聞いたことがない。妙だ、と思わなかったわけではない。
だが俺は、それを深く追及しなかった。
照れているのかもしれない、と自分に言い聞かせた。長く待たされた恋が、いざ手に入ってみると、拍子抜けするほど落ち着いてしまう――そういうものかもしれない、と。都合のいい理由なら、いくらでも思いつくことができた。
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ある晩、俺は熱を出して、寝込んだ。
大したことのない、ただの風邪だった。それでも、婚約者に看病されるという場面を、俺はどこかで期待していたのだと思う。額に濡れた布を置いてくれるとか、手を握って眠るまで傍にいてくれるとか、そういう、他愛のない場面を。
リュシオラ本人は、姿を見せなかった。代わりに寄越されたのは、侍女だった。
かつての婚約者は、こんなときいつも、迷わず駆け寄ってきてくれたのに。
「リュシオラ様より、お大事にとのお言葉です」
「お嬢様にうつると、いけませんもの」
「……ああ、そうか」
俺は、笑って誤魔化した。伝染る風邪の側に、婚約者を近づけたくないと思うのは、当然の気遣いだ、と自分に言い聞かせた。
だが、扉が閉まる音を聞きながら、胸の奥に、小さな、冷たい隙間風が吹き込むのを感じた。
九歳のあの子は、俺のために、自分の命の重さそのものを差し出したはずだった。今の彼女は、ただの風邪ひとつで、部屋の入り口から先に、踏み込もうとしない。
同じ人間だとは、思えなかった。
*
待ち合わせの刻限に、リュシオラが現れなかったことがある。
半刻近く、俺は東屋で、ひとり待ち続けた。
ようやく姿を見せた彼女は、悪びれた様子もなく、街の商人と、楽しそうに言葉を交わしながら歩いてきた。整った顔立ちの、若い行商人だった。
「――遅かったな」
「あら、ごめんなさい。反物の話が、盛り上がってしまって」
それだけだった。詫びる声に、申し訳なさや誠意は、欠片もなかった。
俺は、何かを言おうとして――ふと、口を噤んだ。
似たようなことを、俺自身も、したことがあった。剣の稽古を言い訳に、幼い頃の婚約者を、何度も東屋で待たせたものだった。半刻、一刻と遅れても、あの子は一度も、拗ねた顔ひとつ見せなかった。「いいえ。ちょうど、今来たところですわ」と、いつも同じ嘘をついて、迎えてくれた。
同じことをされて、俺はこんなにも、胸の内がざらつくというのに。
あのとき、あの子は、どんな気持ちで、あの東屋に座っていたのだろう。
その問いは、しかし、長くは俺の中に留まらなかった。リュシオラが、俺の腕に自分の腕を絡めて、甘えるように笑いかけてきたからだ。
「ね、拗ねないで、ヴィンセル様」
その笑顔ひとつで、俺は、あっさりと、問いそのものを手放した。




