一周目、戦場にて
従軍して半年で、俺はヤニクに命を助けられた回数を、数えるのをやめた。
多すぎて、数える意味がなくなったからだ。
夜襲の矢を防いだのも、崩れる岩壁を支えたのも、いつもあの寡黙な従者だった。地味な守りの魔法しか使えない、と本人は言っていたが、その「地味な魔法」に、俺はこの戦場で何度も生かされていた。
「――ヤニク。おまえ、恋人はいるのか」
ある夜、焚き火越しに聞いた。眠れない夜だった。
「……結婚、しています」
「へえ。会いたいだろう」
「どうでしょう。……相手は、自分のことを、好きではないので」
妙な間があった。声が硬かった。俺はそれを、従者の照れだと思って、笑い飛ばした。
「なんだそれは。そんな相手はさっさと別れちまえ。時間の無駄だ」
言ってから、少し、苦く笑った。
人に言えることではなかった。俺自身が、まさにその「時間の無駄」そのものの結婚生活を送っているというのに。
「俺の妻はな」
聞かれてもいないのに、続けた。
「家の決めた枷だ。国と家門が結んだだけの、顔も見たくない枷。あれがリュシ……あの人の半分でも可愛げのある女だったら、俺の人生は違ったんだろうが」
言ってしまってから、なぜか、胸のどこかがちくりとした。
可愛げがない、というのは、正確な言葉だったろうか。あの完璧すぎる妻の、笑った顔を思い出そうとして――なぜか、出てこなかった。浮かぶのは、少しうつむいた、どこか悲しげな顔だけだった。毎朝顔を合わせているはずなのに、笑ったところなど、一度も見た覚えがない。
ヤニクの瞳は、まっすぐだった。
まっすぐすぎて、時折、居心地が悪くなるほどに。
――妻に、似ている。
情熱的で、まっすぐな女だった。大嫌いだった。家同士の都合で、俺に娶らされることになった女。逃げ場をくれない、あの目を、俺はいつも、どこかで避けていた気がする。
「その方のことを、愛しておられるのですね」
ヤニクが、静かに聞いた。その目もまた、まっすぐだった。
「ああ。……死んでしまったがな」
その一言を口にするたび、俺の中の何かが、ますます固く凍っていく気がした。死んだ女への愛のほうが、隣で息をしている妻より、いつも大きな顔をしていた。
*
夜襲は、月のない晩に来た。
三日三晩の行軍のあと、俺たちの結界は擦り切れていた。第一波、第二波はどうにか防いだ。
第三波の矢が来たとき、ヤニクの体が動いた。
だが、間に合わなかった。三日三晩の行軍で、あの男の反応さえ、擦り切れていたのかもしれない。
それに――ヤニクが気づいていない矢が、もう一本、別の角度から飛んでいた。
考えるより先に、体が動いていた。
「――ヤニク!」
叫んで、その体を突き飛ばした。
鈍い音が、自分の背中でした。
気づいたときには、俺の背に、深々と矢が生えていた。
――ああ、そうか。
ずっと守られてばかりだと思っていたが、最後の最後で、俺にも守る番が回ってきたらしい。
「……ヤニク。この一月、ずっと……お前に、守られてばかりだったな……今日、ようやく……俺が、守れた……」
「喋らないでください」
「聞け。……遺言だ」
ヤニクの腕に抱かれながら、その瞳を見上げた。
なぜか、その目を見ていると、どうしても思い出すのは、リュシオラではなく――リディエンヌだった。
理由は、分からなかった。
体から、血の気が引いていくのが分かった。
――俺は、もう死ぬんだ。
その事実だけが、はっきりとしていた。だからこそ、余計に、遺言を残さなければと思った。急くように、焦るように。
俺は、やっと、リュシオラのもとへ行ける。
そう、自分に、言い聞かせるみたいに。
「俺は……リュシオラの仇を、討てなかった。それだけが……心残りだ。あんなに、綺麗な人は……いなかった。なあ、ヤニク……来世が、あるなら……」
それは、九年間、俺が信じ続けた台詞だった。最後まで、その台詞しか、俺には持ち合わせがなかった。
「来世があるなら……今度こそ、あの人と……結ばれたい……」
震える手で、胸元のお守りを外した。
あの日、リュシオラ自身は「もういらない」と、興味も失ったように目を逸らした髪飾りだった。それでも俺は、九年間、これを後生大事に抱えて生きてきた。誰にも要らないと言われたものを、俺だけが、大事にしてきたのだ。
「これを……あの人の、墓に……供えてくれ。頼む……」
誰の手に、それを渡したのか。
最後まで、俺は、知らなかった。




