番外・入れ替わりの約束(ヤニク視点)
私が守りの魔法を使えると知る者は、屋敷にほとんどいなかった。
こんな地味な力、何の役にも立たない、と父に叱られて育ったせいで、庭の隅で、誰もいない時間を選んで、こっそり練習するのが常だった。糸のように編んで、薄く空気に張るだけの、何の役にも立ちそうにない力。
その日も、いつも通り、裏庭の茂みの陰で糸を編んでいた。
「――あなたも、守りの魔法が使えるの?」
声に、飛び上がった。
振り向くと、奥様が――嫁いでこられたばかりの、リディエンヌ様が、興味深そうにこちらを覗き込んでいた。
「も、申し訳ございません。出すぎた真似を、いたしました」
「謝ることないわ。……私と、一緒ね」
奥様は、そう言って、ご自分の掌に、同じ色の糸を灯してみせた。銀色の、私のものよりずっと澄んだ光だった。
「珍しいのよ、この系統は。……誰も、褒めてはくれなかったけれど」
その一言に、何か通じるものを感じたのは、私だけではなかったと思う。
*
それから、時々、庭で一緒に練習するようになった。
主従の垣根を越えた、というと大げさが過ぎるが、少なくとも奥様は、私が糸を編むところを見て、心から楽しそうにされた。
「あなたのその編み方、面白いわね。もう少し目を詰めると、長持ちすると思うのだけれど」
「……試してみます」
誰にも見せたことのない下手な魔法を、奥様だけには、隠さなくてよかった。それだけで、私にとっては、ずいぶんと救いになる時間だった。
*
ある日、奥様が悪戯っぽく笑って、こんなことを仰った。
「――勝負をしましょう、ヤニク」
「勝負、ですか」
「ええ。糸の強さと、持続の長さ。……あなたが勝ったら、お願いをひとつ、聞いてあげる。私が勝ったら、私のお願いを、ひとつ聞いてほしいの」
私は、少し迷って、それでも頷いた。
「もし……私が勝てましたら」
「ん?」
「家族が、病を患っております。……もし願いが叶うなら、あれの薬礼を」
言ってから、口が滑ったと思った。従者ふぜいが、主にねだるような話ではない。だが奥様は、責めるどころか、真剣な顔で頷かれた。
「――分かったわ」
結果は、奥様の圧勝だった。糸の細さも、持続する時間も、比べ物にならなかった。私は、負けを認めた。
「私の負けです。……お願いを、伺います」
「今日は、まだいいわ。取っておくから」
奥様は、そう言って笑った。
その数日後、家族の薬礼が、匿名の御用達として届いた。差出人は分からずじまいだったが、私には、分かっていた。
勝ったのは奥様だったのに、負けた私の願いまで、奥様は黙って叶えてくださっていたのだ。
*
この屋敷で仕える中で、私がいちばん理解できなかったのは、旦那様のことだった。
奥様は、旦那様の好みの茶を欠かさず、体調を誰より早く気にかけ、政務の些細な癖まで諳んじておられた。それだけの真心を、私はこの目で、毎日見てきた。
だが旦那様は、それに気づいた素振りすら、一度も見せなかった。
朝の食卓で、奥様が何を仰っても、心ここにあらずという顔で頷くだけ。胸元には、いつも肌身離さず、焼け焦げた髪飾りを忍ばせておられた。首元にも、もうひとつ。リュシオラ様が幼い頃に手ずから作られたという、粗末な守り袋を下げて、片時も外されなかった。
一方で、奥様が贈られた品は、いつの間にか、屋敷のどこからも消えていた。誂えられた手袋も、季節ごとに選ばれた書物も、私が知る限り、旦那様のお手元に残っているものは、何ひとつなかった。
夜半、独り言のように「ああ、リュシオラ……会いたい」と零す声を、私は幾度も聞いた。もう、この世におられない方の名を、生きている奥様の前で、恥じらいもなく。
「この花は、あの人が好きだった花だ」
いつ、いかなるときも、旦那様の目の中には、亡くなった方しかいらっしゃらなかった。目の前で、あれほどの真心を注いでくださる奥様のことは、まるで空気か、家具の一部であるかのように、一顧だにされなかった。
これほど深く愛して、これほど見向きもされない人を、私は他に知らない。
奥様が、それをどう思っておられたのか。表情ひとつ変えず、いつも通りに旦那様の世話を焼き続けるお姿を見るたび、私はいたたまれない気持ちになった。だが奥様御自身は、一度も、それを口にされたことがなかった。
*
その願いを、奥様が使われる日が来たのは、それから随分あとのことだった。
旦那様が、戦地へ志願なさると聞いた、あの夜だ。
「――ヤニク」
夜更けの居室に呼ばれて、私は膝をついた。
「はい」
「一生のお願いよ」
奥様の声は、いつもと変わらず、静かだった。だが、その静けさの底に、これまで見たことのない何かが、灯っていた。
「この入れ替わりの術で……私と、入れ替わってほしいの」
息が、止まった。
「……奥様?」
「ヴィンセルを、この戦場で死なせるわけにはいかない。……私が、絶対に彼を守ってみせる」
私は、しばらく言葉が出なかった。
入れ替わりの術は、確かに存在する。だがそれは、姿と声を借りるだけの、危うい術だ。戦場に立つのは、術を使う本人の命であることに、変わりはない。
「――本当に、奥様が入れ替わって、ヴィンセル様のお側に行かれるんですか」
「ええ」
「危険が伴います。何週間も、術を維持し続けるとなれば、なおのこと」
「知っているわ」
「旦那様は、奥様のことを……」
言いかけて、私は口を噤んだ。旦那様が奥様をどう扱ってこられたか、この屋敷の誰よりも近くで見てきたのは、私自身だった。
「知っているわ、それも」
奥様は、静かに微笑んだ。
「それでも、あの人に、生きていてほしいの。理由は、いくつあっても足りないくらい。でも、いちばん簡単な理由だけ言うなら――」
少し、間があった。
「私は、あの人を……どうしようもなく、愛しているの」
「――かしこまりました」
私は、深く頭を下げた。
「この身、奥様の願いのために」




