枷という名の暮らし
婚礼の夜、リディエンヌは短く言った。
「――末永く、よろしくお願いいたします」
「……ああ」
それだけだった。誓いの口づけも、形だけで済ませた。彼女の頬に触れた瞬間、俺の頭にあったのは別の女の名前だったから、長くは続けられなかった。
*
夫婦としての暮らしは、驚くほど静かだった。
朝の挨拶。政務の話。時々、社交の場での並び立ち。それ以上のことは、互いに求めなかった。求められても、応えられなかっただろう。
彼女は、何も言わなかった。
文句も、涙も、一度も見せなかった。ただ、俺の食事の好みを覚え、俺の予定を把握し、俺が風邪をひけば、彼女は一晩中、寝ずに看病した。完璧な妻の仕事を、完璧にこなした。
その完璧さが、俺には少し薄気味悪かった。
愛のない結婚に、これほど手を抜かずにいられる人間が、いるものかと思った。裏に何かあるのではと勘繰ったことすらある。今にして思えば、あれは裏でも計算でもなく、ただ――彼女という人間そのものだったのだろう。まっすぐで、情熱的で、一度決めたことは、最後まで貫く人だった。俺への想いも、妻としての務めも、彼女の中では、同じひとつの意志の、違う顔にすぎなかったのだ。
俺はそれを、見ようとしなかった。
*
嘆願が却下されて、ひと月と経たずに、彼女の輿入れが決まった。式の日取りも、輿入れの日も、あっという間に決まっていく中で、俺は何度か、彼女とふたりだけで会っていた。
庭園の裏手、誰も通らない薔薇の陰。人目を忍ぶような形になってしまうことに、当時の俺は、罪の意識をほとんど覚えなかった。言い訳を探す必要すら、なかった。愛しているのはリュシオラだ。ただそれだけで、婚約者であるリディエンヌへの罪悪感など、俺の中には、最初から存在していなかった。
「――こんな形でしか、会えないなんて」
リュシオラは、俺の手を取って、寂しげに微笑んだ。
「すまない」
「あなたが、謝ることでは」
「聞いてくれ」
俺は、彼女の両手を、包むように握った。
「この結婚は、枷だ。俺は、あいつを愛していない。あなたが俺を助けてくれたあの瞬間から、俺の心は、あなたのものだ。……それだけは、変わらない」
リュシオラの瞳が、潤んだ。
「……嬉しい。ずっと、そう言ってほしかった」
*
その密会が、いつどこから漏れたのかは、分からない。
庭師か、下働きの誰かか。あるいは、リュシオラ自身が、誰かに零したのか。
噂は、静かに、だが確実に広まった。
「グランハルト卿は、いまだにあの方に、御執心だそうよ」
「リディエンヌ様は、さぞお辛いでしょうに」
「いいえ。むしろ、あのリディエンヌ様が婚約者の心を掴めないから、卿がよそへ目を向けるのでは?」
この一件でも、王女の評判は、ただただ下がっていった。
婚約者としての不足を、誰かが勝手に決めつけて、勝手に噂にする。彼女がどれほど完璧に婚約者としての務めを果たしていたかなど、誰も見ていなかった。俺自身が、いちばん見ていなかった。
その噂が、リディエンヌの耳にどう届いたのか。彼女がそれを、どんな顔で受け止めたのか。
俺は、聞こうともしなかった。
*
一度だけ、彼女が踏み込んできたことがある。
冬のある夜、俺が書斎で、焼け焦げた髪飾りを眺めていると、扉が叩かれた。
「――お休みに、なりませんの」
「もう少し、起きている」
「……そう、ですか」
彼女は、下がりかけて、一度だけ振り返った。
「グランハルト卿。……ひとつだけ、伺ってもよろしいですか」
「なんだ」
「リュシオラは、もう、他国に嫁ぎました。……それでも、あなたは、彼女を忘れられないのですか?」
俺は、答えなかった。答える必要すら、感じなかった。
彼女は、それ以上何も聞かずに、扉を閉めた。あの一瞬、彼女がどんな顔をしていたか――俺はまた、見なかった。見る気が、なかった。




