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敵国に嫁いだ長女は振り返らない ~元婚約者ヴィンセルside~  作者: 鷹居鈴野


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4/10

枷という名の暮らし

 婚礼の夜、リディエンヌは短く言った。


「――末永く、よろしくお願いいたします」


「……ああ」


 それだけだった。誓いの口づけも、形だけで済ませた。彼女の頬に触れた瞬間、俺の頭にあったのは別の女の名前だったから、長くは続けられなかった。


 *


 夫婦としての暮らしは、驚くほど静かだった。


 朝の挨拶。政務の話。時々、社交の場での並び立ち。それ以上のことは、互いに求めなかった。求められても、応えられなかっただろう。


 彼女は、何も言わなかった。


 文句も、涙も、一度も見せなかった。ただ、俺の食事の好みを覚え、俺の予定を把握し、俺が風邪をひけば、彼女は一晩中、寝ずに看病した。完璧な妻の仕事を、完璧にこなした。


 その完璧さが、俺には少し薄気味悪かった。


 愛のない結婚に、これほど手を抜かずにいられる人間が、いるものかと思った。裏に何かあるのではと勘繰ったことすらある。今にして思えば、あれは裏でも計算でもなく、ただ――彼女という人間そのものだったのだろう。まっすぐで、情熱的で、一度決めたことは、最後まで貫く人だった。俺への想いも、妻としての務めも、彼女の中では、同じひとつの意志の、違う顔にすぎなかったのだ。


 俺はそれを、見ようとしなかった。


 *


 嘆願が却下されて、ひと月と経たずに、彼女の輿入れが決まった。式の日取りも、輿入れの日も、あっという間に決まっていく中で、俺は何度か、彼女とふたりだけで会っていた。


 庭園の裏手、誰も通らない薔薇ばらの陰。人目を忍ぶような形になってしまうことに、当時の俺は、罪の意識をほとんど覚えなかった。言い訳を探す必要すら、なかった。愛しているのはリュシオラだ。ただそれだけで、婚約者であるリディエンヌへの罪悪感など、俺の中には、最初から存在していなかった。


「――こんな形でしか、会えないなんて」


 リュシオラは、俺の手を取って、寂しげに微笑んだ。


「すまない」


「あなたが、謝ることでは」


「聞いてくれ」


 俺は、彼女の両手を、包むように握った。


「この結婚は、枷だ。俺は、あいつを愛していない。あなたが俺を助けてくれたあの瞬間から、俺の心は、あなたのものだ。……それだけは、変わらない」


 リュシオラの瞳が、潤んだ。


「……嬉しい。ずっと、そう言ってほしかった」


 *


 その密会が、いつどこから漏れたのかは、分からない。


 庭師か、下働きの誰かか。あるいは、リュシオラ自身が、誰かに零したのか。


 噂は、静かに、だが確実に広まった。


「グランハルト卿は、いまだにあの方に、御執心ごしゅうしんだそうよ」


「リディエンヌ様は、さぞお辛いでしょうに」


「いいえ。むしろ、あのリディエンヌ様が婚約者の心を掴めないから、卿がよそへ目を向けるのでは?」


 この一件でも、王女の評判は、ただただ下がっていった。


 婚約者としての不足を、誰かが勝手に決めつけて、勝手に噂にする。彼女がどれほど完璧に婚約者としての務めを果たしていたかなど、誰も見ていなかった。俺自身が、いちばん見ていなかった。


 その噂が、リディエンヌの耳にどう届いたのか。彼女がそれを、どんな顔で受け止めたのか。


 俺は、聞こうともしなかった。


 *


 一度だけ、彼女が踏み込んできたことがある。


 冬のある夜、俺が書斎で、焼け焦げた髪飾りを眺めていると、扉が叩かれた。


「――お休みに、なりませんの」


「もう少し、起きている」


「……そう、ですか」


 彼女は、下がりかけて、一度だけ振り返った。


「グランハルト卿。……ひとつだけ、伺ってもよろしいですか」


「なんだ」


「リュシオラは、もう、他国に嫁ぎました。……それでも、あなたは、彼女を忘れられないのですか?」


 俺は、答えなかった。答える必要すら、感じなかった。


 彼女は、それ以上何も聞かずに、扉を閉めた。あの一瞬、彼女がどんな顔をしていたか――俺はまた、見なかった。見る気が、なかった。

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