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敵国に嫁いだ長女は振り返らない ~元婚約者ヴィンセルside~  作者: 鷹居鈴野


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3/10

一度目の嘆願

 敵国から縁談の打診が来た、という報せは、その日のうちに王宮中を駆け巡った。


 廊下でも、控えの間でも、誰もが同じ噂を交わしていた。


「リディエンヌ様には、もうグランハルト卿という婚約者がおられるでしょう」


「では、リンドヴェールへ嫁がれるのは、リュシオラ様ということに」


「まあ、お労しい……あの過酷な国で、あの方が」


 過酷な国。誰かがそう言うたびに、俺の中で何かが焦げるような音を立てた。


 だめだ。


 リュシオラを、そんな国へやるわけにはいかない。


 *


 その夜、俺は父の書斎に駆け込んで、机の上に紙を広げた。


「今すぐ、嘆願します」


「……何の話だ」


「婚約解消です。リディエンヌ様との。……その上で、リュシオラ様との婚約を、どうか」


 父は、目を見開いた。


「今か? この縁談の話が出た、まさにこのときにか」


「今しかありません」


 俺の頭には、リディエンヌの顔など、欠片も浮かんでいなかった。婚約者としての彼女の存在は、その夜、俺の思考のどこにも席がなかった。あるのはただ、リュシオラが遠い国へ連れて行かれる想像と、それを止めなければという、焼けつくような焦りだけだった。


「差し出せるものは、全部差し出します。勲章でも、封地でも、継承権でも」


 *


 返答は、三日で来た。


「――却下だ」


 父が、書状を机に置いた。


「理由を、お聞かせいただけましたか」


「……ああ。聞いた」


 父は、珍しく言葉を濁した。


「陛下に、……リディエンヌ様御自身が直談判して、拒否されたそうだ」


「何と、仰ったのですか」


「婚約とは、軽々しく破棄できるほど軽いものではない、と。……もし婚約が解かれ、この身が敵国へ嫁ぐことになるくらいなら、いっそ死んだほうがましだと――そう、泣いて陛下におすがりになったそうだ」


 俺は、しばらく言葉が出なかった。


 泣いて。縋って。死んだほうがまし、とまで。


 その光景を想像して、俺の中に湧いたのは、憐れみではなかった。


 吐き気がした。


 無理やり結婚を繋ぎ止めようとする王女の姿に。縋られたところで、俺の心が動くはずもないというのに、みっともない、と思った。


 *


 この話は、瞬く間に王宮中の噂になった。


「グランハルト卿が、婚約解消を望まれたとか」


「王女殿下は、それは泣いてお縋りになったそうよ。……あちらの国に嫁がされるくらいなら死ぬ、と」


「まあ……それほどまでに、卿を」


「――リディエンヌ様も、あわれよね」


 誰かが、扇の内側で、そう囁くのを聞いたこともある。


「婚約者から、婚約者を変えたいと言われて。……王女の矜持きょうじがおありなら、いっそご自分から、大人しく敵国へお輿入れなさればよろしいのに」


 悪意のある口ぶりだった。


 王女の矜持を捨ててまで、悪意ある噂の的になってまで、彼女が譲らなかったのは、ただ――俺を、愛していたからだ。愛しているから、手放したくなかった。それだけの、ただの一途さだった。


 その想いを、俺は生涯、一度も受け取らなかった。


 *


「傍から見れば、俺たちは悲劇の恋人同士にでも見えるんだろうな」


 その夜、リュシオラに会うなり、俺はそう切り出した。周りの誰もが、俺たちを引き裂かれた恋人として見ている――そう思うことが、あの頃の俺には、どこか誇らしくすらあった。


 彼女は、俺の手を取って、静かに微笑んだ。


「お姉さまが、そこまで手放したくないなんて。……わたくし、少し怖くなりました」


「怖い?」


「あなたを、取られてしまいそうで」


 俺は、その言葉に、また救われた気になった。却下という結果より、リュシオラの不安げな顔のほうが、その夜の俺には重かった。


「取られない。……たとえ、無理やり結婚させられたとしても、そこに愛はない。俺が愛しているのは、あなただけだ」

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