一度目の嘆願
敵国から縁談の打診が来た、という報せは、その日のうちに王宮中を駆け巡った。
廊下でも、控えの間でも、誰もが同じ噂を交わしていた。
「リディエンヌ様には、もうグランハルト卿という婚約者がおられるでしょう」
「では、リンドヴェールへ嫁がれるのは、リュシオラ様ということに」
「まあ、お労しい……あの過酷な国で、あの方が」
過酷な国。誰かがそう言うたびに、俺の中で何かが焦げるような音を立てた。
だめだ。
リュシオラを、そんな国へやるわけにはいかない。
*
その夜、俺は父の書斎に駆け込んで、机の上に紙を広げた。
「今すぐ、嘆願します」
「……何の話だ」
「婚約解消です。リディエンヌ様との。……その上で、リュシオラ様との婚約を、どうか」
父は、目を見開いた。
「今か? この縁談の話が出た、まさにこのときにか」
「今しかありません」
俺の頭には、リディエンヌの顔など、欠片も浮かんでいなかった。婚約者としての彼女の存在は、その夜、俺の思考のどこにも席がなかった。あるのはただ、リュシオラが遠い国へ連れて行かれる想像と、それを止めなければという、焼けつくような焦りだけだった。
「差し出せるものは、全部差し出します。勲章でも、封地でも、継承権でも」
*
返答は、三日で来た。
「――却下だ」
父が、書状を机に置いた。
「理由を、お聞かせいただけましたか」
「……ああ。聞いた」
父は、珍しく言葉を濁した。
「陛下に、……リディエンヌ様御自身が直談判して、拒否されたそうだ」
「何と、仰ったのですか」
「婚約とは、軽々しく破棄できるほど軽いものではない、と。……もし婚約が解かれ、この身が敵国へ嫁ぐことになるくらいなら、いっそ死んだほうがましだと――そう、泣いて陛下にお縋りになったそうだ」
俺は、しばらく言葉が出なかった。
泣いて。縋って。死んだほうがまし、とまで。
その光景を想像して、俺の中に湧いたのは、憐れみではなかった。
吐き気がした。
無理やり結婚を繋ぎ止めようとする王女の姿に。縋られたところで、俺の心が動くはずもないというのに、みっともない、と思った。
*
この話は、瞬く間に王宮中の噂になった。
「グランハルト卿が、婚約解消を望まれたとか」
「王女殿下は、それは泣いてお縋りになったそうよ。……あちらの国に嫁がされるくらいなら死ぬ、と」
「まあ……それほどまでに、卿を」
「――リディエンヌ様も、あわれよね」
誰かが、扇の内側で、そう囁くのを聞いたこともある。
「婚約者から、婚約者を変えたいと言われて。……王女の矜持がおありなら、いっそご自分から、大人しく敵国へお輿入れなさればよろしいのに」
悪意のある口ぶりだった。
王女の矜持を捨ててまで、悪意ある噂の的になってまで、彼女が譲らなかったのは、ただ――俺を、愛していたからだ。愛しているから、手放したくなかった。それだけの、ただの一途さだった。
その想いを、俺は生涯、一度も受け取らなかった。
*
「傍から見れば、俺たちは悲劇の恋人同士にでも見えるんだろうな」
その夜、リュシオラに会うなり、俺はそう切り出した。周りの誰もが、俺たちを引き裂かれた恋人として見ている――そう思うことが、あの頃の俺には、どこか誇らしくすらあった。
彼女は、俺の手を取って、静かに微笑んだ。
「お姉さまが、そこまで手放したくないなんて。……わたくし、少し怖くなりました」
「怖い?」
「あなたを、取られてしまいそうで」
俺は、その言葉に、また救われた気になった。却下という結果より、リュシオラの不安げな顔のほうが、その夜の俺には重かった。
「取られない。……たとえ、無理やり結婚させられたとしても、そこに愛はない。俺が愛しているのは、あなただけだ」




