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敵国に嫁いだ長女は振り返らない ~元婚約者ヴィンセルside~  作者: 鷹居鈴野


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2/10

初恋

 九歳の春、山桜の森で、俺は死にかけた。


 狩猟の集いの余興のつもりだった。大人に隠れて森の奥へ入り、噂の魔獣を一目見てやろうと思った。子供の浅知恵だ。獣は本物で、火を吐いた。


 覚えているのは、熱と、匂いと、耳鳴りだけ――のはずだった。


 だが、ひとつだけ、違う。


 銀色の光の中で、誰かが俺を掻きいだいた。小さな、震える腕だった。それでも、離す気配だけはなかった。


「――死なないで」


 声が、耳のすぐそばで震えていた。


「死なないで。……私の魔力を、全部あげるから」


 温かいものが、胸の奥に流れ込んできた。焼けた体の芯に、雪解け水を注がれるような感覚だった。痛みが遠のいて、代わりに、途方もない何かが、俺という器を満たしていくのが分かった。


 全部、と少女は言った。


 子供心にも、それがどれほどの意味を持つ言葉か、なんとなく分かった。魔力とは、命の分け前だ。全部あげる、というのは、自分の命の重さを、そっくり差し出すということだ。


 男が捧げるだけなら、まだ許される。だが女が初魔力を捧げるのは、本来、夫婦になる者同士の行い――初夜に交わすべき、いちばん重い誓いなのだと、行儀作法の教師から聞いたことがあった。


 それを、この子は、迷いもせず、俺のために差し出した。


 だとしたら。


 朦朧もうろうとした頭の隅で、九歳なりの、不格好な結論がひとつ、生まれた。受け取ってしまった以上、俺には、この子に対する責任がある。


 ――ありがとう。


 言おうとした声は、形にならないまま、暗闇に沈んだ。


 代わりに、指先が、何か小さな硬いものに触れた。あの子の髪から、揺れて落ちてきたものだと、朦朧とした頭のどこかで分かった。


 握った。


 離すまい、と思った。理由はなかった。ただ、それだけが、暗闇に沈んでいく俺と、あの温かい声とを繋ぐ、最後の糸のように思えたから。


 意識が完全に途切れるその瞬間まで、俺の指は、それを離さなかった。


 *


 目を覚ましたのは、四ヶ月後だった。


 窓の外は九月で、季節がひとつ丸ごと抜け落ちていた。口を開くと、掠れた音しか出なかった。


 真っ先に気づいたのは、右手の重みだった。


 指が、固く握られたまま開かない。こじ開けると、汗ばんだ掌の中から、小さな銀細工が転がり出た。焼け焦げた跡のある、髪飾り。


 ――あれだ。


 暗闇に沈む間際、離すまいと握ったもの。誰の手も、この四ヶ月、こじ開けようとはしなかったらしい。よほど固く握り込んでいたのか、それとも、誰も気味悪がって触れなかったのか。


 あの子が、落としたものだ。


 理由はなかった。ただ、そう確信した。銀色の光の中、俺を抱きしめた誰かが、きっとこれを落としていったのだと。


「――目が、覚めましたのね」


 声のするほうを見た。空色の瞳をした少女が、寝台の脇に座っていた。結った蜂蜜色の髪に、見覚えのある意匠の髪飾りが揺れている。掌の中のものと、よく似た細工に、見えた。


「君は……誰?」


「リュシオラ、です」


「僕を、助けてくれた人……?」


 少女は、少しだけ困ったように、睫毛まつげを伏せた。答えたようで、答えていない仕草だった。


「……僕のこと、リディエンヌが、助けてくれたのかな」


 なぜそんな名を口にしたのか、自分でも分からなかった。ただ、婚約者の顔が、ふとよぎった。


「まさか」


 リュシオラは、くすりと笑った。困った顔から、一転して。


「お姉さまは、そんなに強いお力を、持っていませんもの。……助けられるはずが、ありませんわ」


「じゃあ、もしかして……君が、助けてくれたの?」


「うふふ。……そうよ」


 少女は、睫毛を伏せたまま、小さく頷いた。噓をついている顔には、見えなかった。


 俺は、握ったままだった掌を開いて、髪飾りを見せた。


「これ、君のだろう。……落としたんだと思う」


「まぁ、汚れてしまったから、もうこれはいらないわ」


 少女は、それだけ言うと、傍らの屑籠くずかごに、髪飾りをぽいと放り捨てた。焼け焦げてすすにまみれた小さな細工など、彼女にとっては、その程度のものでしかなかったらしい。


 いらない、と捨てられたそれを、俺は、なぜか放っておけなかった。


 誰にも要らないと言われたものを、自分だけは、大事にしてやりたかったのかもしれない。あるいは、これが命を救われた唯一の証だという思いが、彼女自身の扱いとは関係なく、俺の中で勝手に育っていたのかもしれない。


 俺は、屑籠からそっとそれを拾い上げ、自分の胸元にしまった。


「何か、覚えていますか?」


「ううん。……なんにも」


 本当に、何も覚えていなかった。銀色の光と、震える声だけが、形にならない印象として、体のどこかに残っているだけだった。


「そう、ですか」


 少女は、そっと目を伏せて、それから小さく続けた。


「――あなたが、リディエンヌお姉さまの婚約者じゃなかったら、よかったのに」


「……え?」


「ごめんなさい。今のは、忘れてください」


 九歳の俺には、その一言の裏側を読む力なんて、なかった。ただ、震える睫毛と、消え入りそうな声だけが、胸に刺さった。


「僕の……せい、なのか?」


「あなたのせいでは、ありませんわ。誰のせいでもありません。ただ……」


 少女は、膝の上で指を組んだ。


「あなたはきっと、お姉さまが、一番大切なのよね。……もう、私たち、会わないほうが、いいのかしら」


 少女は、睫毛を伏せて、消え入りそうな声で、そう零した。


 その一言が、九歳の俺の中に、小さな迷いを残した。


 命を救われた。それも、これ以上ないほどの代償を払って。なのに、婚約者がいるからと、その人を後回しにするのは――何か、間違っている気がした。


 恩を返さずに、別の人を優先するなんて、男として卑怯だ。そう思った。九歳なりの、不格好な正義感だった。


「そんなこと、ないよ」


 俺は、たどたどしく言った。


「僕は、また君と会いたい。……助けてもらった恩だって、返さなきゃ」


 リュシオラの瞳が、初めて、ほっとしたように緩んだ。


「よかった」


 その微笑みだけを、俺は九年間、正しい記憶として抱え続けることになる。


 *


 その数日後、庭で、俺はリュシオラと並んで歩いていた。


 彼女は、俺の腕に、当たり前のように絡みついていた。まだ本調子ではない俺を支えるためだと、そのときは思っていた。


「――離れなさい」


 声に振り向くと、リディエンヌが、こちらを睨むように立っていた。


「わたくしの婚約者に、べたべたしないで」


「お姉様、そんな」


「あなたにも、言っているのよ。ヴィンセル様」


 彼女の声は、俺が今まで聞いたことのないほど、尖っていた。


「――彼女は、僕の恩人だ」


 俺は、リュシオラを庇うように、一歩前に出た。


「恩人に対して、そんな意地の悪い言い方をしないでくれ」


「恩人?」


 リディエンヌの眉が、ぴくりと動いた。


「魔獣に襲われたとき、助けてくれたんだ。リュシオラがいなかったら、僕は死んでいた」


「――あなたを助けたのは、リュシオラではないわ! 私よ!」


 彼女の声が、初めて、震えた。


 俺は、その剣幕けんまくに、たじろいだ。だが同時に、腕の中のリュシオラが、ひくり、と肩を震わせるのが分かった。


「……お姉様は、わたくしのことが、お嫌いだから」


 リュシオラは、涙ぐんだ声で、小さく言った。


「そんな、ひどいことを、仰るんだわ。……お姉様は、ちっぽけな量しか、魔力を持っていらっしゃらないのに。わたくしの功績まで、奪いたいのですね」


 その一言で、俺の中の天秤は、完全に傾いた。


「最低だな、リディエンヌ」


 自分でも驚くほど、冷たい声が出た。


「嘘つきだし……妹をいじめるなんて。軽蔑するよ」


「ヴィンセル……」


 リディエンヌの声が、掠れた。


 その顔を、俺は今でも、ときどき思い出す。ひどく傷ついた顔だった。今にも泣き出しそうな、それでも泣くまいと、唇を強く結んでいた顔。


 あのときの俺には、その顔の意味が、まったく分からなかった。


 嘘をついて、実の妹の功績を横取りしようとした女の、都合の悪い顔だとしか、思わなかったのだ。

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