初恋
九歳の春、山桜の森で、俺は死にかけた。
狩猟の集いの余興のつもりだった。大人に隠れて森の奥へ入り、噂の魔獣を一目見てやろうと思った。子供の浅知恵だ。獣は本物で、火を吐いた。
覚えているのは、熱と、匂いと、耳鳴りだけ――のはずだった。
だが、ひとつだけ、違う。
銀色の光の中で、誰かが俺を掻き抱いた。小さな、震える腕だった。それでも、離す気配だけはなかった。
「――死なないで」
声が、耳のすぐそばで震えていた。
「死なないで。……私の魔力を、全部あげるから」
温かいものが、胸の奥に流れ込んできた。焼けた体の芯に、雪解け水を注がれるような感覚だった。痛みが遠のいて、代わりに、途方もない何かが、俺という器を満たしていくのが分かった。
全部、と少女は言った。
子供心にも、それがどれほどの意味を持つ言葉か、なんとなく分かった。魔力とは、命の分け前だ。全部あげる、というのは、自分の命の重さを、そっくり差し出すということだ。
男が捧げるだけなら、まだ許される。だが女が初魔力を捧げるのは、本来、夫婦になる者同士の行い――初夜に交わすべき、いちばん重い誓いなのだと、行儀作法の教師から聞いたことがあった。
それを、この子は、迷いもせず、俺のために差し出した。
だとしたら。
朦朧とした頭の隅で、九歳なりの、不格好な結論がひとつ、生まれた。受け取ってしまった以上、俺には、この子に対する責任がある。
――ありがとう。
言おうとした声は、形にならないまま、暗闇に沈んだ。
代わりに、指先が、何か小さな硬いものに触れた。あの子の髪から、揺れて落ちてきたものだと、朦朧とした頭のどこかで分かった。
握った。
離すまい、と思った。理由はなかった。ただ、それだけが、暗闇に沈んでいく俺と、あの温かい声とを繋ぐ、最後の糸のように思えたから。
意識が完全に途切れるその瞬間まで、俺の指は、それを離さなかった。
*
目を覚ましたのは、四ヶ月後だった。
窓の外は九月で、季節がひとつ丸ごと抜け落ちていた。口を開くと、掠れた音しか出なかった。
真っ先に気づいたのは、右手の重みだった。
指が、固く握られたまま開かない。こじ開けると、汗ばんだ掌の中から、小さな銀細工が転がり出た。焼け焦げた跡のある、髪飾り。
――あれだ。
暗闇に沈む間際、離すまいと握ったもの。誰の手も、この四ヶ月、こじ開けようとはしなかったらしい。よほど固く握り込んでいたのか、それとも、誰も気味悪がって触れなかったのか。
あの子が、落としたものだ。
理由はなかった。ただ、そう確信した。銀色の光の中、俺を抱きしめた誰かが、きっとこれを落としていったのだと。
「――目が、覚めましたのね」
声のするほうを見た。空色の瞳をした少女が、寝台の脇に座っていた。結った蜂蜜色の髪に、見覚えのある意匠の髪飾りが揺れている。掌の中のものと、よく似た細工に、見えた。
「君は……誰?」
「リュシオラ、です」
「僕を、助けてくれた人……?」
少女は、少しだけ困ったように、睫毛を伏せた。答えたようで、答えていない仕草だった。
「……僕のこと、リディエンヌが、助けてくれたのかな」
なぜそんな名を口にしたのか、自分でも分からなかった。ただ、婚約者の顔が、ふとよぎった。
「まさか」
リュシオラは、くすりと笑った。困った顔から、一転して。
「お姉さまは、そんなに強いお力を、持っていませんもの。……助けられるはずが、ありませんわ」
「じゃあ、もしかして……君が、助けてくれたの?」
「うふふ。……そうよ」
少女は、睫毛を伏せたまま、小さく頷いた。噓をついている顔には、見えなかった。
俺は、握ったままだった掌を開いて、髪飾りを見せた。
「これ、君のだろう。……落としたんだと思う」
「まぁ、汚れてしまったから、もうこれはいらないわ」
少女は、それだけ言うと、傍らの屑籠に、髪飾りをぽいと放り捨てた。焼け焦げて煤にまみれた小さな細工など、彼女にとっては、その程度のものでしかなかったらしい。
いらない、と捨てられたそれを、俺は、なぜか放っておけなかった。
誰にも要らないと言われたものを、自分だけは、大事にしてやりたかったのかもしれない。あるいは、これが命を救われた唯一の証だという思いが、彼女自身の扱いとは関係なく、俺の中で勝手に育っていたのかもしれない。
俺は、屑籠からそっとそれを拾い上げ、自分の胸元にしまった。
「何か、覚えていますか?」
「ううん。……なんにも」
本当に、何も覚えていなかった。銀色の光と、震える声だけが、形にならない印象として、体のどこかに残っているだけだった。
「そう、ですか」
少女は、そっと目を伏せて、それから小さく続けた。
「――あなたが、リディエンヌお姉さまの婚約者じゃなかったら、よかったのに」
「……え?」
「ごめんなさい。今のは、忘れてください」
九歳の俺には、その一言の裏側を読む力なんて、なかった。ただ、震える睫毛と、消え入りそうな声だけが、胸に刺さった。
「僕の……せい、なのか?」
「あなたのせいでは、ありませんわ。誰のせいでもありません。ただ……」
少女は、膝の上で指を組んだ。
「あなたはきっと、お姉さまが、一番大切なのよね。……もう、私たち、会わないほうが、いいのかしら」
少女は、睫毛を伏せて、消え入りそうな声で、そう零した。
その一言が、九歳の俺の中に、小さな迷いを残した。
命を救われた。それも、これ以上ないほどの代償を払って。なのに、婚約者がいるからと、その人を後回しにするのは――何か、間違っている気がした。
恩を返さずに、別の人を優先するなんて、男として卑怯だ。そう思った。九歳なりの、不格好な正義感だった。
「そんなこと、ないよ」
俺は、たどたどしく言った。
「僕は、また君と会いたい。……助けてもらった恩だって、返さなきゃ」
リュシオラの瞳が、初めて、ほっとしたように緩んだ。
「よかった」
その微笑みだけを、俺は九年間、正しい記憶として抱え続けることになる。
*
その数日後、庭で、俺はリュシオラと並んで歩いていた。
彼女は、俺の腕に、当たり前のように絡みついていた。まだ本調子ではない俺を支えるためだと、そのときは思っていた。
「――離れなさい」
声に振り向くと、リディエンヌが、こちらを睨むように立っていた。
「わたくしの婚約者に、べたべたしないで」
「お姉様、そんな」
「あなたにも、言っているのよ。ヴィンセル様」
彼女の声は、俺が今まで聞いたことのないほど、尖っていた。
「――彼女は、僕の恩人だ」
俺は、リュシオラを庇うように、一歩前に出た。
「恩人に対して、そんな意地の悪い言い方をしないでくれ」
「恩人?」
リディエンヌの眉が、ぴくりと動いた。
「魔獣に襲われたとき、助けてくれたんだ。リュシオラがいなかったら、僕は死んでいた」
「――あなたを助けたのは、リュシオラではないわ! 私よ!」
彼女の声が、初めて、震えた。
俺は、その剣幕に、たじろいだ。だが同時に、腕の中のリュシオラが、ひくり、と肩を震わせるのが分かった。
「……お姉様は、わたくしのことが、お嫌いだから」
リュシオラは、涙ぐんだ声で、小さく言った。
「そんな、ひどいことを、仰るんだわ。……お姉様は、ちっぽけな量しか、魔力を持っていらっしゃらないのに。わたくしの功績まで、奪いたいのですね」
その一言で、俺の中の天秤は、完全に傾いた。
「最低だな、リディエンヌ」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。
「嘘つきだし……妹をいじめるなんて。軽蔑するよ」
「ヴィンセル……」
リディエンヌの声が、掠れた。
その顔を、俺は今でも、ときどき思い出す。ひどく傷ついた顔だった。今にも泣き出しそうな、それでも泣くまいと、唇を強く結んでいた顔。
あのときの俺には、その顔の意味が、まったく分からなかった。
嘘をついて、実の妹の功績を横取りしようとした女の、都合の悪い顔だとしか、思わなかったのだ。




