婚約者
婚約というものを、俺は六つの歳に知った。
庭園の敷石の上で、父に背中を押されて前へ出た。向かいに立っていたのは、白い服を着た同い年くらいの少女だった。銀の髪に、菫色の瞳。
「――婚約者になるんですって」
大人たちが型通りの言葉を交わし終えるより先に、少女は俺の手を両手で包んで、そう言った。頬が上気していた。今にも跳ねて回りそうな体を、行儀作法だけがかろうじて押さえ込んでいる、というふうだった。
「よろしくお願いします、ヴィンセル様。……わたくし、今日をずっと、待っていました」
俺は、戸惑った。
政略で決められただけの顔合わせのはずなのに、まるで本物の好意がそこにあるかのような顔で、俺は面食らった。こんなに幸せそうに、嬉しそうにされるとは、思ってもみなかったから。
俺のほうは、早く終わって駆け回りたい、としか考えていなかったというのに。
*
母が死んだのは、その翌年の冬だった。
葬列の後ろで、俺はどうやって泣けばいいのかも分からず、ただ突っ立っていた。涙は、なぜか出てこなかった。悲しいのに、悲しみ方が分からない。そんな顔をしていたのだと思う。
誰も声をかけてこない中、リディエンヌだけが、俺の隣に来て座り込んだ。
何も言わずに。
しばらくして、彼女のほうが先に泣き出した。俺の代わりに泣いてくれているのだと、幼い頭でも、なんとなく分かった。
「……お前が、泣くことないだろう」
「だって……悲しいんですもの。ヴィンセル様が、悲しいのが」
その一言で、俺の中の何かが、堰を切った。俺は、婚約者の肩に顔を埋めて、初めて声を上げて泣いた。誰よりも先に、彼女がそこにいてくれたから、泣くことができた。
*
彼女は、俺の誕生日を一度も忘れなかった。
七つの年は、不格好な刺繍のハンカチだった。グランハルト家の紋章を、覚えたての針で、何日もかけて縫ったのだと、あとで乳母から聞いた。指に何度も針を刺したという話も。
「下手ですけれど……頑張りましたの」
彼女は照れくさそうに、それを差し出した。俺は「ああ」とだけ言って受け取った。自分が彼女の誕生日に何を贈ったかは、覚えていない。何も贈らなかった年のほうが、多かったと思う。
八つの年は、焼き菓子だった。木苺のジャムを挟んだ、不格好な焼き菓子。俺が「これが好きだ」と、夜会でひとくち口にしただけの菓子を、彼女は厨房に何度も通って、自分の手で再現しようとしたのだという。
「厨房の者に手伝ってもらいましたけれど……味は、わたくしが」
些細なことまで覚えていて、一生懸命な様子に、少し驚いた。
*
彼女は、言葉でも、俺への想いを惜しまなかった。
「大好きですわ、ヴィンセル様」
何でもないことのように、唐突に、そう言うことがあった。廊下ですれ違いざまに。庭で並んで座っているときに。理由も脈絡もなく。
「あなたの婚約者で、わたくし、幸せですの」
毎回、律儀に照れて、毎回、律儀に本気だった。
俺はそのたび、生返事で受け流した。「ああ」とか、「そうか」とか。まともに向き合って、まともに答えたことは、一度もなかったと思う。子供心にも、これほど惜しみなく好意を向けられることに、少し居心地の悪さすら覚えていた。慣れというのは、恐ろしいものだ。慣れてしまえば、どんな贈り物も、どんな言葉も、空気と同じになる。
*
優しくされるたび、俺はどこかで、それを当たり前のように、傲慢にも思っていた。
子供の意地悪だ。悪気があったわけではない。
約束の刻限に、俺はよく遅れた。剣の稽古が長引いた、というのが、いつもの言い訳だった。半刻、長いときには一刻近く、彼女を待たせたこともある。
庭園の東屋で、彼女はいつも同じ場所で、同じ姿勢で待っていた。
「――遅くなった」
「いいえ。ちょうど、今来たところですわ」
毎回、判で押したように、そう言った。噓だと分かっていた。彼女の膝の上の本は、とっくに読み終えてしまっている様子だったから。
怒った顔も、拗ねた顔も、一度も見せなかった。
俺は内心、彼女ならどうせ怒らないのだろうと、高を括っていた。同じことをされて、なお怒らない人間がいるとは、それまで思っていなかったから。だがその甘えの底に何があったのか、当時の俺は、確かめようとしなかった。
*
膝を割った日のことも、よく覚えている。
王宮の裏庭で木剣を振り回して、石に躓いて、盛大に転んだ。膝から血が出て、泣きそうになるのを堪えて、代わりに悪態をついていると――
「――血が出てるわ」
声より先に、彼女が駆けてきた。侍女が止めるのも聞かず、ドレスの裾を気にする素振りひとつなく、俺の前にしゃがみ込んだ。
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃないでしょう。座って」
ただ、俺のことが心配で仕方ない、という声だった。
その日、彼女の髪を結っていたのは、亡き母君の形見のリボンだった。大切に扱うように言われていたはずのそれを、彼女は髪から解くと、迷いもせず引き裂いて、俺の傷に巻いた。
母の形見で大切なものなのに、俺の怪我のために、惜しげもなく引き裂いた。
*
剣の稽古に、彼女が加わるようになったのは、その頃からだったと思う。
「わたくしにも、剣を教えてくださいな」
「王女が、剣なんて」
「あなたと同じことが、してみたいんですもの」
王女が剣を握ること自体、褒められた話ではない。それでも彼女は、教師に頭を下げてまで、木剣の握り方を習い始めた。手のひらに、俺と同じ場所に、同じように肉刺を作って。
弓も、そうだ。俺が武練場に通う日は、必ずと言っていいほど、彼女もそこにいた。
「わたくしも、続けます」
「なんで、そこまで」
「あなたと、同じ時間を過ごしたいからです。それだけでは、いけませんの?」
いけない、とは言えなかった。ただ、なぜそこまでするのか、当時の俺には、本当の意味では分からなかった。
九歳になる少し前、その武練場で並んで弓を習っていたときも、そうだった。
「――肘を上げすぎです、ヴィンセル様。的の前に、風があるでしょう」
教官より先に、隣から声が来た。
「風なんか見えないだろう」
「見えなくても、吹いています。あの旗の揺れ方で」
言われた通りに肘を落とすと、矢は的の中心近くに刺さった。
「……なんで、分かるんだ」
「見ているからです。あなたのことだけは、いつも」
その一言を、俺はその日、特に気にも留めなかった。彼女がいつも自分を見ていることも、いつも自分を優先していることも、もう当たり前になりすぎていたのだ。
*
一度だけ、俺が贈り物をしたことがある。
彼女の誕生日を、うっかり忘れていた。当日の朝、乳母に指摘されて、気まぐれに庭に飛び出して、目についた野の花を、片っ端から摘んだ。体裁の欠片もない、ただの言い訳のような花束だった。
「誕生日おめでとう」
差し出すと、彼女は目を丸くして、それから、俺が見た中で、いちばん眩しい顔で笑った。
「まあ……嬉しい」
「こんなものでいいのか」
「ええ。とても」
その花を、彼女がどうしたのか、俺は知らなかった。何ヶ月も経ったある日、彼女の手にしていた本の栞が、押し花になっているのを、たまたま見た。
あの日の、名も知らない野の花だった。
「それ……」
「ええ。あの日のお花ですわ。……押し花にして、栞にしましたの」
彼女は、それを大事そうに、そっと本に戻した。
まっすぐにぶつけられる愛情に、どう応えればいいのか――当時の俺は、分かっていなかった。
分からないまま、幼かった。ただ、それだけだった。




