第8話 一週目の水曜
契約をした次の水曜が来るまでに、藤代透は三度、自分の机の中の缶コーヒーを確認した。
別に缶コーヒーが逃げるわけではない。
月曜の朝、鞄から机に移す時に一度。火曜の朝、登校してすぐに一度。火曜の昼休み、教室で蓮と話している途中、ふと思い出して一度。指先で側面を撫でて、もう温くなっているが、ちゃんとそこにあると確かめて机の中に戻す。
馬鹿らしい、と思う。
馬鹿らしいと思いながらもう一度確認している自分が馬鹿らしい。
校舎裏の木製ベンチに座って缶コーヒーを傾ける。それだけのことだ。それだけのことを平日の中で四回、頭の中で予習している。一回目は「ふつうにすればいい」と思い、二回目は「ふつうって何だ」と思い、三回目には「ふつうにふつうにすればいい」というよく分からない結論に至り、四回目はもう考えるのをやめた。
水曜の朝、髪を整える時間がいつもより十秒長くなっていた。
「藤代、今日、なんか機嫌よくない?」
朝のホームルーム前、隣の席で頬杖をついた蓮が横目で透を見て言った。
「そうかな」
「うん。なんか、いつもより目が起きてる」
「寝坊しなかっただけだろ」
「寝坊したことあるのかよ、お前」
蓮が短く笑った。透も教室モードの薄い笑いを返した。
「藤代くん、おはよー!」
前の席の女子が振り返っていつもの挨拶を投げてくる。透は「おはよう」と短く返し、その後で自分が一秒も悩まずに笑顔を作れたことに内心で驚いた。
契約の効能、というやつかもしれない。
たった一人、嘘でも本音でも受け取ってくれる相手がいるだけで、教室の中の演技は息がしやすくなる。
昼休みのチャイムが鳴った。透は機械的に弁当を片付け、機械的にトイレに寄り、機械的に校舎の北側へ歩いた。歩幅がいつもよりほんの少し大きい。
用務員室の裏、屋根の張り出しの下のベンチに桐谷茉莉はもういた。
紙パックのリンゴジュースの代わりに、今日は缶サイダーを持っている。先週の契約のとき、乾杯のような仕草に使った缶サイダーと同じ銘柄だ。透が来ることを知っていた、というよりは信じていた、という座り方だった。背筋を伸ばしてベンチの右側の端に寄って左側を空けて。
「来た」
茉莉が言った。教室モードの語尾の伸びはない。
「来た」
透も同じだけの短さで返した。
「座って」
「ああ」
透は左側に座った。ベンチの古い木が二人分の体重で、ぎし、と一度鳴いた。
九月下旬の昼、空気はもう夏のものではない。蝉の声は消えて、代わりに学生たちの声が遠くから聞こえてくる。
風が首筋を撫でると、透は微糖の缶のプルタブを起こした。プシ、と音がした。
茉莉も缶サイダーのプルタブを起こした。プシ、とすこし高い音がした。
「……」
「……」
しばらく二人とも何も言わなかった。
いや、言えなかった、と言った方が正確だ。先週ここで契約をした。週に一度、お互いに一つずつ嘘をつく。お互いそれを嘘と知って頷いて受け入れる。そういう、形だけ言葉にすれば二行で済むことを、いざ運用する段になってみると、二人ともどこから始めればいいのかよく分からないらしかった。
契約書の最初のページの署名欄の前でペンの先を浮かせている感じだ。
透が缶コーヒーを一口飲んだ。微糖の甘さが舌に乗ってぬるく消える。
「藤代から、いく?」
茉莉が缶サイダーの飲み口に指先を当てたまま言った。
「俺から?」
「私から言い出したから、言い出した方が、二週目」
「……分かるが、それ、契約書のどこに書いてある」
「今、書いた」
「勝手に増やすなよ」
茉莉がふっと小さく笑った。透も笑った、と自覚した時にはもう笑っていた。
ぎこちなさがふっとほどけた。
「じゃあ、俺からだな」
透は缶を膝の上に置いた。両手で缶の側面を包む。冷たい。指先の体温が少しずつ缶に移っていく。
何を言おうかとここに来るまでにいくつかの候補を頭の中で並べてきた。並べてきたくせにベンチに座って茉莉の横顔を見た瞬間に、その候補はだいたい全部白く飛んだ。
代わりに、いちばん最初に思い浮かんでいたいちばん地味な一つが口から出た。
「家は別に厳しくない。父さんとは、普通の関係だ」
言ってから自分の声が思っていたよりも普通に響いたことに驚いた。
演技じゃないと自分に言い聞かせていたわけでもない。ただ、教室で「家は普通だよ」と答える時の声と何が違うのかよく分からない声だった。
茉莉はこちらを見なかった。校舎の北側の壁を見ていた。視線の先には特に何もない。塗装の剥げた壁と配管と用務員室の裏口があるだけだ。
茉莉は缶サイダーの口を唇に当てたまま、飲まずに一拍置いた。それから頷いた。
「ふーん」
ふーん、と本当にそれだけだった。
「いいね」
付け加えた言葉も本当にそれだけだった。
契約通りだ、と透は思った。
茉莉は透の嘘を嘘と知った上で頷いた。詰問もしなかった。同情もしなかった。憐れみも説教も慰めもこちらに来なかった。
ただ「ふーん、いいね」と受け取った。
受け取られた嘘が空気の中でゆっくりと形を持っていく感じがした。教室で「家は普通だよ」と言った時、その嘘は相手の耳の表面で滑ってどこにも溜まらずに消えていく。けれど今、この場所で口にした嘘はちゃんと一つの嘘としてそこにあった。それを嘘と分かったうえで受け取ってくれた誰かがいた。
不思議な感覚だった。
嘘が嘘のままで許されていた。
茉莉の番だ。
「あたしの番ね」
茉莉が言った。声は淡々としていた。
「お母さん、毎週、電話くれる」
透は缶コーヒーを持つ手を止めた。
茉莉の横顔は相変わらず前を見ていた。表情は動かない。声も抑揚はほとんどない。教室モードの語尾の伸びはなく、けれど本音モードのあの妙に淡々とした硬さも少し違う。少しだけ柔らかい。子供が絵本の中の一行を声に出して読み上げているような、そういう柔らかさだった。
嘘だ、と透は思った。
なぜ嘘だと思ったのか、自分でもはっきりとは説明できなかった。
茉莉の家に電話があるかどうか、母親がいるかどうか、その人が毎週電話をかけるかどうか、透は何一つ知らない。事実を確かめる材料は何もない。それなのに茉莉の声の、その「絵本の一行」のような柔らかさがなぜかそのまま嘘の匂いに感じられた。
誰かが本当に毎週かけてくれる電話の話をする時、人はもう少し雑な言い方をする。「うちのお母さん、しつこくてさ」とか「電話、長くて困るんだよね」とか、文句の形を取ることが多い。茉莉の言い方はそういう生活の手垢がついていなかった。
嘘の質を疑ってはいけない。嘘を嘘と受け取って頷く。
それが契約だ。
「いいな」
透は短く言った。
言ってから、たった三文字の中に自分の本音が混ざっていたことに気づいた。
いいな、と本当にそう思ったのだ。
茉莉のお母さんが毎週電話をかけてきたら、それはいいな、と。
茉莉が毎週その電話を取って、面倒臭そうに「もー、お母さん、しつこいー」と語尾を伸ばすことがあればいいな。
嘘の中身に、嘘と知ったうえでちゃんと「いいな」と思ってしまった。
契約は嘘を許す契約だ。
けれど、その嘘の中身にこちらの本音で頷くことまでは禁止していない。
ふたりはしばらく黙ってそれぞれの缶を飲んだ。
遠くにある誰かの掛け声。誰かの笑い声。ここは校舎の蛍光灯の白さとは別の世界だった。
「藤代」
「ああ」
「契約、続けようね」
「ああ」
「来週も、ここで」
「ああ」
返事を「ああ」しかしていない、と気づいたのはベンチを立って教室に戻る途中だった。
戻る途中で振り返ったら、茉莉はまだベンチに座って缶サイダーのプルタブを爪先で軽く弾いて揺らしていた。
ぴこ、ぴこ、と小さな音がした。
その指の動きが何か意味のある動きであるような気が、その時の透にはまだしなかった。
── ◇ ──
その日の夜、机に向かいながら透は奇妙な軽さに気づいていた。
体は疲れている。頭も世界史の単語をひととおり押し込んだ後で鈍くなっている。
なのに胸の奥のあたりがいつもより少しだけ軽い。
昼休みに嘘をついた。
誰かに嘘を嘘と知って頷いてもらった。
たったそれだけのこと。
馬鹿らしい、ともう一度思った。
馬鹿らしいと思いながら明日も明後日も生きて、来週の水曜まで辿り着こうとしている自分のことが、嫌いではなかった。
お読みいただき、ありがとうございました。
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