第6話 契約
九月十五日。月曜日。
その日はよく晴れていた。
朝のうちは少し肌寒かったが昼休みになる頃には、九月らしいやわらかい日差しが校舎裏まで届いていた。アスファルトの上に落ちる校舎の影が夏よりも長く、輪郭が夏よりもはっきりしていた。
透はいつもより少しだけ早く校舎裏に向かった。
早足になっている自覚があった。なっている、ということに自分でわずかに苦笑した。
──別に、急ぐ必要はない。
何度か自分に言い聞かせたが足のリズムは戻らなかった。
校舎の角を曲がる。
ベンチにすでに茉莉が座っていた。
膝の上に二本置かれていた。一本はいつものリンゴジュース。もう一本は見慣れない缶のサイダーだった。
「藤代」
茉莉が顔を上げた。
「うん」
「今日は缶コーヒー、ある?」
「ある」
「じゃあ、そっち持ってて」
「これから何の儀式だよ」
「儀式じゃない。──まあ、儀式かも」
透は何かを察した。
察したけれどまだ輪郭はわからなかった。
ベンチにいつも通り少し離れて腰を下ろした。
茉莉はしばらく何も言わなかった。
サイダーの缶を膝の上で両手で握っていた。指先で缶のプルタブを何度か撫でていた。撫でてまた撫でてそれをしばらく続けた。
透は急かさなかった。
急かさない、ということにもう自分でも慣れ始めていた。
風がひとつ流れた。
「藤代」
と、茉莉が言った。
「うん」
「契約しない?」
透はその三文字を一度頭の中で繰り返した。
──契約。
教室で耳にしたらたぶん笑いながら聞き返すような言葉だった。けれど、ここで、この茉莉から発された「契約」という言葉は、笑いを含まなかった。
「契約?」
透は聞き返した。
自分の声がいつもより半オクターブだけ低い場所から出ているのが自分でわかった。
「うん」
茉莉は頷いた。
そして少しだけこちらを見た。──ほんの少しだけだ。視線の角度は五度くらい。だがまっすぐ、透の目を見た。
「週に一度」
「うん」
「あんたが、あたしに、嘘をつく」
「……うん」
「あたしも、あんたに、嘘をつく」
透は答えなかった。
茉莉は続けた。
「お互い、それが嘘って、知ってる。知ってるけど、頷いて、受け入れる。──そういう、契約」
沈黙がたぶん五秒くらいあった。
透は缶コーヒーを膝の上で握ったまま茉莉の顔を見ていた。茉莉はもうこちらを見ていなかった。視線はまた空に戻っていた。だが空を見ていなかった。空のさらに向こうの何か別のものを見ていた。
「それ、何のための」
透は声を絞り出すように聞いた。
言い終わってから自分の語尾がいつもの『お前もな』の調子ではなかったことに気づいた。藤代くんの声でもなかった。どちらでもない、第三の声、だった。
茉莉はすぐには答えなかった。
そしてようやく口を開いた。
「演技してる時のあたしたち、教室では真実を言ってないでしょ」
「……うん」
「真実を言わない、ってことを、毎日、ずっと、やってる」
「うん」
「──だからね」
茉莉はそこでほんの少しだけ息を吸った。
「ここでは、嘘を言うんだ。逆。教室で真実を言わないなら、ここでは、嘘を言う。あえて、嘘を、言う」
透は眉を寄せた。
「……意味、わからない」
「あたしも、たぶん、半分しか、わかってない」
茉莉が少しだけ笑った。
笑い方は初日にベンチで見せた、口の端だけの笑い方だった。
「でも、あたしね、思ったの」
と、茉莉は続けた。
「教室の『茉莉ちゃん』が真実を言わないこと、なんでしんどいんだろうって、ずっと考えてた」
「うん」
「で、たぶんね、真実が言えないからしんどいんじゃなくて、真実を言えない自分のこと、誰にも、見せられないからなんだ」
透は缶コーヒーを握る指に力が入ったのを感じた。
力が入った、というよりも、内側から自分の指が固まったような感覚だった。
「真実を言えない、っていう状態を、誰かと、ふたりで、ちゃんと、共有したかった」
茉莉は続けた。
「だから、嘘を、つく。お互いに。──嘘って、わかってる嘘を、つく。それは、真実を言わないってことを、ふたりで、確認するためのやり方なの」
「……」
「嘘の周りには、たぶん、真実があるから」
茉莉はそこまで言ってようやくこちらを見た。
「嘘を、ふたりで、ひとつずつ、置いていけばさ。その嘘の周りに、たぶん、自分でも気づいてなかった真実が、見える気がする。──そういう、契約」
透は答えなかった。
答えられなかった、というのが正しい。
頭の中で茉莉の言葉をもう一度最初から再生した。再生してもすぐには腑に落ちなかった。腑に落ちないまま、けれど何かわかってしまった気がした。腑に落ちないけどわかってしまう、という、変な感覚だった。
──たとえば。
たとえば明日、自分が茉莉に「俺、父さんと、うまくいってる」と嘘をついたとする。
茉莉はそれが嘘だと知っている。
けれど茉莉は「そう、よかったね」と頷く。
透は嘘をついた。
茉莉は嘘だと知って受け入れた。
──そのとき、自分の中に、何が残るだろうか。
たぶん「うまくいってない」という事実の輪郭が、ふだんよりも少しだけはっきり見える気がした。
嘘を口に出してそれを受け止めてもらう、という、その手続きを経た時にだけ、たぶん見える輪郭があった。
透は缶コーヒーをベンチの座面にいったん置いた。
そして、考えた。
考える、というよりも、自分の中で、何かをゆっくりと許可していく感覚だった。
これを、頷いていいか。
これを、結んでしまっていいか。
結んだ後、自分はどうなるのか。
──たぶん、たいしたことには、ならない。
これはたぶん世界の何かを変える契約ではない。生徒会の議案でもないし、進路調査でもない。たかが、週に一度、校舎裏で、嘘をひとつずつ置き合うだけのことだ。それで自分の家庭は変わらない。父も変わらない。母も変わらない。受験の結果も変わらない。
変わらないのに結ぶ意味はあるのか。
ある、と思った。
──たぶん、ある。
言語化しきれないままに、ある、と思った。
茉莉のほうをもう一度見た。
茉莉はベンチの上で両手をだらしなく膝に置いて、ストローも噛まず、缶のプルタブにも触れず、ただ静かにこちらの答えを待っていた。
待っている、ということを隠そうとしていなかった。
教室の桐谷茉莉はたぶん、こんなふうに誰かを待ったりしない。「茉莉ちゃん」はいつも答えを先回りして用意している。先回りして用意して明るく投げ返す。それが「茉莉ちゃん」の仕事だ。
だがこの校舎裏の桐谷茉莉は待っていた。
答えを、用意しないで、待っていた。
透はゆっくりと息を吐いた。
それから頷いた。
「いいよ」
と、言った。
「ほんとに?」
「うん」
「短い返事だね」
「……長く言うのも、変だろ」
「変かも」
茉莉がまた口の端だけで少しだけ笑った。
「じゃあ、契約成立」
「成立」
透はまた缶コーヒーを取った。
茉莉がサイダーの缶を持ち上げた。プルタブを起こす指先がほんの少しだけ震えていたかもしれない。透にはそう見えたが見えなかったかもしれない。プシッ、と乾いた音がして缶の口からわずかに泡が上がった。
「乾杯」
と、茉莉が言った。
「乾杯」
と、透も言った。
──缶コーヒーと缶サイダーがわずかに傾いた。
ぶつけたわけではなかった。ぶつけるほどの距離は二人の間にはなかった。ただ缶の角度をお互いにほんの少しずつ相手のほうに傾けた。それだけだった。それだけの動作で何かが結ばれた感じがした。
「最初の嘘、いつ言う?」
茉莉が聞いた。
「次に、ここで会う日でいいだろ」
「うん」
「日付、決める?」
「あんたが決める?」
「水曜日。──週の真ん中だ」
茉莉は口を少しだけ開けた。
開けたまま何かを言いかけてやめた。やめてサイダーをもう一口飲んだ。喉が上下に一度動いた。
「藤代」
「うん」
「あんた、いま、どんな顔してる?」
透はすぐには答えなかった。
自分の顔の感覚を確かめてみた。眉の角度、口の端の位置、頬の力。──教室のいつもの『藤代くん』ではなかった。たぶん初日にここで「お前もな」と言った時の顔に近かった。
「……たぶん、お前のことを、見てる顔」
「ふうん」
「お前は」
「あたしも、あんたのこと、見てる顔」
「お互い様か」
「お互い様」
風がもう一度流れた。
校舎裏の九月十五日の風は夏のものでも冬のものでもなかった。境目の風だった。気温は二十六度くらい、湿度は適度に乾いていて、頬を撫でる感じがちょうどよかった。
五時間目の予鈴が遠くで鳴った。
茉莉がゆっくりと立ち上がった。
「あたし、先に戻る」
「うん」
「水曜日」
「水曜日」
茉莉はサイダーを飲み終えると、缶を手に持ったまま校舎の角を曲がっていった。曲がる手前でもう一度だけ振り返らなかった。──振り返らなかった、ということを透はわざわざ確認した。振り返らなかったのがたぶん今の二人にとっては正しい振る舞いだった。
透はベンチの上にもう少しだけ残った。
残って缶コーヒーの最後の一口をゆっくりと飲んだ。
ぬるくなった微糖の甘さが口の中に薄く広がった。
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