第4話 校舎裏のベンチ
始業式から四日目の昼休みだった。
九月五日。金曜日。気温は朝より少し上がって二十八度くらい。透はネクタイの結び目に指をかけたまま、まだ緩めずに廊下を歩いていた。
ネクタイを緩めるのは校舎裏に着いてからだ。
透にとってその手順は決まっていた。教室を出るまでは『藤代くん』。階段を降りる間はまだ『藤代くん』。一階の廊下を歩く時もまだ。昇降口の脇の渡り廊下を抜けて用務員室の前を通ってゴミ集積所の角を曲がって校舎の裏側に出る。そこに来てやっとネクタイの結び目を指一本分だけ緩める。
校舎裏には古いベンチが一脚だけある。
木製で塗装がもうほとんど剥げていて、雨に降られるたびに少しずつ朽ちていく類のベンチだ。背もたれは斜めにささくれていて、座面の真ん中あたりに誰かが刻んだ落書きのような線が残っている。「3-1」と読めるその線はたぶん何年も前の三年一組の誰かが暇つぶしに彫ったものだろう。
そのベンチは、透が透で居られる場所だった。
教師たちはこの場所をあまり巡回しない。校舎の北側の、用務員室のさらに裏で、生徒たちもめったに来ない。夏は蚊が多くて敬遠され、冬は日が当たらなくて寒い。秋と春のほんの一瞬の良い気候の時にだけ、誰かが訪れてそしてすぐにいなくなる。
透はジャケットのポケットに手を入れた。
缶コーヒー。
駅前のコンビニで買って入れてきた一本。微糖。ブラックではない。ブラックは父が好む味で透は微糖の方が好きだった。だから家の外でしか飲まない。家の冷蔵庫の缶コーヒーはいつも父が買った無糖だった。
校舎の角を曲がる。
──透は足を止めた。ベンチに先客がいた。
桐谷茉莉だった。
一瞬、透は自分の見ているものが信じられなかった。
ベンチに座っているその少女はたしかに桐谷茉莉だった。同じ制服、同じリボンの結び方、肩のあたりで揺れる髪、見覚えのある横顔。けれど、教室で、廊下で、何度か遠目に見たあの桐谷茉莉とはぜんぜん違って見えた。
笑っていなかった。
笑っていない、というだけのことがこれほど別人に見える人間を、透はあまり知らなかった。
茉莉はベンチの背もたれにもたれて空を見上げていた。両手はだらしなく膝の上に置かれていて、片方の手には紙パックのジュースが握られている。ストローを軽く噛んでいて、それが上下にゆっくり動いていた。
視線は空にあって、だが本当に空を見ているわけではなさそうだった。たぶん何も見ていない。
透にもその目つきには覚えがあった。自分の部屋で模試の途中で、ふと手を止めて天井を見上げる時、たぶん自分も同じような目をしている。
透は足を止めたまましばらく動けなかった。
──人違い?
一瞬、本気でそう思った。桐谷茉莉によく似た別の人物。あるいは桐谷茉莉の双子の姉妹。そんなものがいるとは聞いたことがないが、いるはずがないとも断言はできなかった。今、目の前にいる人物と、教室で聞いた「あー、それ、わかるー!」の声を発した人物が同じ人間だとは、感覚として一致しなかった。
茉莉がふいにストローから口を離した。
そのまま視線を空からゆっくり下ろしてこちらを見た。
目が合った。
桐谷茉莉の目は透のことを認識するのにたぶん一秒くらいかけた。
ぼんやりした視線が少しずつ焦点を結んでいく感じだった。輪郭が定まって、それからその輪郭が「藤代透」という名前と結びつく感じ。透はその一秒を奇妙に長い時間として体感した。
茉莉が目を細めた。
笑った、わけではなかった。困った、というほどでもなかった。なんと表現していいかわからない表情だった。──強いて言えば、見られたくないものを見られた人間の覚悟を決めるまでの一瞬、のような顔だった。
「……あ」
透の口から意味のない音が漏れた。
漏れてしまってから、透は、それが『藤代くん』の口から出るには似合わない音だったことに気づいた。
教室の藤代くんは廊下ですれ違った同級生を見つけても「……あ」とは言わない。「あ、桐谷さん」と適切な距離の挨拶をする。
茉莉はそれに答えるように口を開いた。けれどすぐには声を出さなかった。口を開けたまま透の顔を見ていた。
それからほんの少しだけ首を傾けた。
「藤代くん」
と、言った。
──教室と同じ声、ではなかった。
「藤代くん」の六文字がずいぶんと低い場所から発音された。校内で聞いた声と同じ人間から出ているとは思えない声だった。
「……桐谷さん」
やっとそれだけ答えた。
答えた瞬間に、自分の発した「桐谷さん」が『藤代くん』の声だったことに気づいた。気づいて口の中が少しだけ乾いた。
茉莉はベンチの上で姿勢を正そうとしかけて途中でやめた。背中を背もたれから離しかけてふっと力を抜きまた背もたれに戻した。教室の桐谷茉莉ならもっとシャンと座っていたはずだ。だが今のこの桐谷茉莉はシャンと座る気をたぶん起こさなかったのだろう。
「ここ、来るんだね」
茉莉がぽつりと言った。
質問のような、確認のような言い方だった。
透は缶コーヒーを握る手にわずかに力が入ったのを自覚した。
「……たまに」
「ふうん」
茉莉はそれだけ言ってまた少しだけ視線を空に戻した。空には九月の薄い雲が一筋だけ流れていた。
「桐谷さんも?」
透は自分が「桐谷さんも、ここに来るの?」と尋ねたかったのに、最後の四文字を言い損ねたことに気づいた。文章として欠けている。けれど茉莉はそれを汲み取って答えた。
「うん。ときどき」
「……そう」
沈黙がたぶん十秒くらいあった。
透は自分が今すぐ立ち去るべきか、それともいつも通りベンチに腰を下ろすべきか、迷っていた。立ち去ればそれは「逃げた」ように見える気がした。腰を下ろせばそれは「並んで座った」ことになり、別の意味を持ってしまう気がした。
茉莉が軽く息を吐いた──薄い溜息。
「立ってると、目立つよ」
と、言った。
透はその言葉に少し遅れて従った。
ベンチの、茉莉から離れた端に腰を下ろす。木のベンチがきしんで低く鳴いた。
── ◇ ──
並んで座って、それでもしばらく、二人とも口を開かなかった。
透は缶コーヒーのプルタブを起こした。プシッ、と乾いた音がして、缶の口から微糖の甘い匂いがほんのわずかに上がった。一口、口をつける。少しぬるくなっていた。それでよかった。
茉莉は紙パックのジュースのストローをまた口に咥えた。
噛んでいた。
透はそれを横目で一度見たが、すぐに視線を前に戻した。視線を戻して、視界の端に、灰色の校舎の壁と、その向こうに見える錆びた手すりと、そのさらに向こうの空を見た。
風が少しだけあった。
茉莉の髪がそれで揺れた。
「藤代くん」
茉莉がまた声を発した。
やはり、教室の声ではなかった。
「うん」
「あんた、ずっと演技してるよね」
透は缶コーヒーを口に運ぼうとした手を止めた。
止めた、ということに自分でもすぐに気づいた。止めたあと、ゆっくりと何でもないかのように缶を膝の上に戻した。すべての動作を何でもないかのようにやることに透は慣れていた。
だがたぶん、この少女にはそれが通じない。
透は横を見た。
茉莉はこちらを見ていなかった。空を見ていた。空を見たままストローを噛んでいた。けれどもその声は明らかに透の方を向いていた。
「……何の話?」
透はわざと『藤代くん』の声で返した。半分だけ笑った、わざとらしくない程度の笑顔も用意した。──たぶん教室ならこれで切り抜けられる。
「教室の藤代くんの話」
茉莉は笑わなかった。
「いつもニコニコしてて、頭よくて、生徒会もやって、宿題完璧でさ。──あれ、しんどくない?」
透は口の中の唾を一度飲み込んだ。
喉が少しだけつかえた。
ベンチの座面の上で革靴のつま先がほんの少し浮いてまた下りた。たぶん茉莉は気づいていない。
何を答えるべきか、頭の中で三つくらいの選択肢が走った。
ひとつ。「別に、しんどくはないよ」と笑う。藤代くんモードで切り抜ける。
ふたつ。「桐谷さんこそ、何の話?」と質問で返す。話題を相手に投げ返す。
みっつ。……。
みっつ目を考えかけて、透は横の茉莉の顔をもう一度見た。
茉莉は空を見たままストローを噛むのをやめていた。手の中の紙パックはもう半分以上空になっていた。ほとんど空になった紙パックを茉莉は持て余すように軽く揺らしていた。
──たぶん、嘘は通じない。
そう思った。
根拠はなかった。けれど、空を見上げている横顔の、目の周りの陰の濃さと、口元のわずかな力の抜け方を見て透はそう判断した。この目つきの相手に教室用の藤代くんを差し出してもたぶん跳ね返されるだけだ。
跳ね返されても痛くはない。痛くはないが多分それは無駄だ。
透は缶コーヒーをもう一口飲んだ。
飲んでふっと口の端で息を吐いた。
「お前もな」
と、言った。
言ってから、自分の声が教室の声ではなかったことに気づいた。
──『お前もな』。
そんな言葉、藤代くんは使わない。藤代くんは女子のことを「お前」と呼ばない。「桐谷さん」と呼び、「だよね」とか「だと思うけど」とか、語尾をやわらかく曖昧にする。
今、出た声は藤代くんの声ではなかった。
今出した自分の声がどんな音だったか、透自身うまく思い出せないくらい久しぶりに出した音だった。
茉莉がはじめてこちらを向いた。
目が合った。
茉莉の口の端がほんの少しだけ動いた。
それは『笑った』というのがいちばん近かい顔だった。教室でクラスメイトと笑い合っているときの声を上げる笑い方ではなかった。
声は出ていなかった。ただ口の端が片方だけ少しだけ上がった。それだけだった。
だがその「それだけ」が、教室の桐谷茉莉の笑顔と比べて十倍くらい本物に見えた。
「気づいてたんだ」
茉莉が言った。
「気づかない方が無理だろ」
透は答えた。
答えてから、自分が「だろ」と言い切った言葉を使ったことにまた気づいた。気づいたがもう取り消す気はなかった。取り消したらたぶんそれは偽物になる。
茉莉が紙パックのジュースを揺らした。残りが少ないせいで軽い音がした。
「あたしも、気づいてた」
「いつから」
「一年の時に、廊下で、先生に怒られてるあんたを、たまたま見たことがある」
「俺が、怒られてた?」
「ううん。あんたじゃなくて、あんたの後ろにいた一年の男子が、廊下走ってて。あんたは止めようとした側だった」
「ああ……」
透はその日のことを思い出した。一年生の終わり頃のたしか冬だった。
「で、先生があんたじゃなくて、止めようとしてたあんたまで一緒に叱り始めて。あんた、最初『……は?』って顔した」
「した、かな?」
「した。一瞬で消えたけど、した。あたし、あの時の顔の方が、たぶんあんたの本当の顔だと思った」
透は缶コーヒーの口をもう一度くわえた。
飲まなかった。くわえただけでまた離した。
「桐谷さんは」
「うん」
「桐谷さんも、ずっと?」
茉莉は答える前に少しだけ唇を噛んだ。
ストローではなく自分の唇を上の歯で軽く噛んだ。透はそれを横目で見て、見たことをすぐに忘れた振りをした。
「うん。ずっと」
「いつから」
「あー……」
茉莉は空を見上げた。
「中学、入る前くらいから、かなあ」
短い答えだった。
その短さに透は何かを察した。察したけれど深く聞かなかった。聞かない方がたぶんいい気がした。──家庭の話。透がそうであるようにたぶん茉莉にも。
茉莉はそれ以上は言わなかった。
透もそれ以上は聞かなかった。
二人の間で、半分くらいの真実が、半分くらいの沈黙のかたちで共有された。
校舎裏のベンチの上で九月五日の昼休みの風がもう一度だけ二人の髪を揺らした。
五時間目の予鈴が鳴ったのは、それから七分後のことだった。
茉莉が最初に立ち上がった。
「あたし、先に戻る」
「うん」
「あんた、ネクタイ直してから戻りなよ。曲がってる」
「……ありがとう」
茉莉が紙パックを片手にベンチを離れた。
数歩進んでふと振り返った。
「藤代くん」
「うん」
「明日も来る?」
透は半秒、答えに迷った。
迷った、というほどではなかったかもしれない。
「……来るよ」
「ふうん」
茉莉はそれだけ言って校舎の角を曲がっていった。
教室への戻り方がもう、教室モードの足取りになっていた。リボンが揺れて、髪が揺れて、姿勢が一段階だけ持ち上がった。校舎の角を曲がる瞬間にたぶん桐谷茉莉は『茉莉ちゃん』に切り替わった。
透はベンチの上にもう少しだけ残った。
缶コーヒーの残りをゆっくりと飲み干した。
缶の底にぬるい液体の最後の一口がわずかに残った。
飲み干してから空になった缶をしばらく手の中で握っていた。
──お前もな、と自分が言ったことをもう一度頭の中で再生した。
たった四文字だった。
たった四文字なのに、その四文字を口に出したことで何かが少しだけ動いた気がした。何が、と聞かれてもうまく説明できない。
透はようやく立ち上がった。
ネクタイの結び目を指でつまんでまっすぐに直す。
たしかに茉莉の言った通り曲がっていたからだ。
お読みいただき、ありがとうございました。
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