第3話 夜九時の藤代家
始業式の日の夜、藤代家のリビングにはテレビの音だけが低く流れていた。
経済ニュースのキャスターが円安と原油価格について真面目な声で原稿を読み上げている。父はそれをソファに座って眺めながら片手にウイスキーのグラスを持っていた。氷の音がニュースの合間に時々鳴った。
透は二階の自室で模試の過去問を解いていた。
──時刻、午後九時十七分。
数学の大問四。整数問題。手元のシャープペンシルは芯を0.5ミリから0.3ミリに替えたばかりで書き心地が違う。透はそれに馴染ませるようにまずは計算の途中式を几帳面に並べていく。
一階からガラスの音とグラスを置く音が聞こえた。
それから廊下を歩く足音。
透はシャープペンシルの動きを止めなかった。止めると止めたことに気づかれる気がしたからだ。
ノックはなかった。
父はノックをしない。ドアを開ける時、必ず一度深く息を吐いてから開ける。透はその息の音だけで父が来たことに気づく。
ドアが静かに開いた。
「透」
「はい」
透は椅子を半回転させて父を見た。
藤代雅夫。五十二歳。大手商社の常務取締役。今日も家でもネクタイを外していない。シャツの一番上のボタンだけを外している。それが父の「自宅モード」だった。グラスはリビングに置いてきたらしい。手は空だった。
「来月の模試はトップ三位以内だ」
「はい」
「東大法学部だ。それ以外は許さない」
「はい」
父の言葉に抑揚はあまりなかった。命令というよりも決定事項を読み上げているような口調だった。事実これは決定事項だった。透が物心ついた頃から藤代家における進路は決定事項であり議論の対象ではなかった。父は息子の意見を聞くために言葉を発しているのではない。確認のために発しているのだ。
「八月のA判定について、担任から聞いた」
「はい」
「同じくらいの志望をしている連中は、全員A判定だ」
「はい」
「A判定は、安全ではない」
「はい」
「わかっているな」
「はい」
透は四回「はい」と答えたところで、自分が同じ角度で同じ声量で頷き続けていることに気づいた。気づいてその精度を落とさないようにした。
父はほんの数秒だけ部屋の中を見回した。
机の上の参考書の積み方、ベッドの整え方、カーテンの引き具合。父が部屋に入る時、必ず行う点検だった。机が乱れていればそれを指摘する。ベッドが整っていなければそれを指摘する。指摘しなかった日はそれだけで透は今日を「合格」だと判断する。
今日は何も指摘されなかった。
「続けろ」
父はそう言ってドアを閉めた。
ドアを閉める音は開ける時と同じくらい静かだった。父はドアを乱暴に閉めない。怒りを音にする男ではない。怒りは言葉にする男だった。
透は椅子の背もたれにほんのわずかに体を預けた。
ほんのわずかにだ。一センチか、二センチ。
それ以上は預けない。背もたれにもたれた姿勢を誰かに見られるのが嫌だった。誰も今、この部屋にはいないとわかっているのに。
階下から皿を洗う水の音が聞こえた。
母が夕食の後片付けをしている。父が二階に上がってからずっと続いている水音だった。
透はその音を一度だけ意識してまた数学の問題に目を戻した。
母は父が透の部屋に行く時、必ずキッチンにいる。父が透の部屋から戻ってきても、水の音は続いていた。
視線を上げない。声をかけない。それが母の藤代家における立ち位置だった。
透は母を責める気持ちはなかった。
母は母なりに保っているのだと思う。父の前で口を挟まないことで家庭の表面の平穏を。
母の沈黙は母の選択だった。透がそれに何かを言う筋合いはない。ない、と思う。思おうとしている。
シャープペンシルが整数問題の解答欄の上でほんの少しだけ止まった。
透はその止まった先をしばらく見つめた。
ふと──誰にも見せていない顔がある、と思った。
父にも、母にも、蓮にも、生徒会の連中にも、塾の講師にも。誰にも見せていない自分の顔。それが本当にどんな顔なのかすら自分でもうまく思い出せない時がある。鏡を見てもそこには『藤代くん』しかいない。
ペンを握り直した。
問題の続きを解く。指数の処理、解きながら頭の半分はまったく別のことを考えていた。
明日も明後日もその次の日も、今日と同じ顔で同じ角度で同じ声量で「はい」と言わなければならない。
当面の終わりが見えなかった。
終わりがないわけではない。受験が終われば一区切りはつく。だがその先に何が待っているのかはたぶんまた別の「はい」だった。父にとっての「合格」は東大法学部に入っただけでは終わらない。大学院、司法試験、就職、そのまた先。藤代家の長男は降りられない。
透はため息……ではなく、深呼吸をひとつだけした。
自宅の中で自分のために深呼吸をしていいのはこの部屋の中だけだった。
──午後九時四十六分。
シャープペンシルの先が紙の上でまた動き始める。
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