第三章 おばあちゃん エピソード1
年が明けて、本格的な入試シーズンが始まった。三年生たちは皆、人事を尽くして天命を待つと言った心持ちで、それぞれの志望校へと散っていく。今までは、受験なんてまだ先のことだと思っているところがあったけど、ちょうど一年後、私も同じことをしているかと思うと、否が応でもスタートラインに立たされてしまったようで、身が引き締まると言うよりも気後れする。
とはいえ、私は相変わらず勉強に身が入らない日々を送っている。勉強しなきゃと思って机に向かうのだが、気が散ってしまって集中できない。こんなことでは入試に勝てないことはわかっているのだけど……。
そんなとき、ふと私の頭を過るのは、あのパスケースのこと。パスケースから出てきた写真シールや、山手学院大学での一件などから、パスケースが祖母のものではないかと見当がついていたが、祖母が認知症ではないかという疑念が浮かんでからは、なんとなくそのことを祖母に直接訊いてはいけないような気がして、あれからそのことには触れずにいた。
「陽茉莉、たまには気分を入れ替えて、外のベンチでお弁当を食べてみない?」
午前の授業を終えて、彩香が声をかけてきた。一年で最も寒い時期にしては珍しく、窓の外はさんさんと太陽の光が降り注いでいて、見るからに暖かそうだった。このまま教室の中でお弁当を食べても、まわりから聞こえてくるのはどこそこの大学を受けようと思うとか、最近塾に通い始めたとか、そんな気が重い話ばかりだろうから、気分転換を兼ねて外に出てみることにした。
校庭の桜の木のそばのベンチに並んで腰かけた私たち。頭上の木々の枝は葉を落としていて、太陽の光が全身に当たってほのかに暖かかった。
お弁当を食べながら彩香が切り出したのは、テレビやスマホアプリの話。今見ているドラマの主人公が格好いいとか、最近、彩香が新たに始めたというSNSの訪問者数が伸びてきたとか、取るに足らない話ばかり。きっと彩香も、受験を前にして気づまりなんだろうと思う。
彩香がひと通り話し終えたタイミングで、私はふと気になったことがあって、彩香に訊いてみることにした。
「彩香って、宝塚に住んでいるから、当然、地元の宝塚でボランティアをしているんだよね」
私が口にした宝塚とは、私が住んでいる西宮から北に上がったところにある街。歌劇の大劇場があって、歌劇ファンからは聖地として崇められている、モダンで洗練された雰囲気の街だった。
それがどうしたと言いたげに、彩香は感情の籠らない声で答える。
「うん、そうだけど……それがどうかしたの?」
「いや、特に意味はないんだけどさ、前から彩香の話を聞いていて、ボランティアって楽しいのかなって思っていたから……」
「あぁ、なんだ、そう言うこと」
そう言って、彩香は食べ終わったお弁当箱を、スカートの上に敷いていたランチョンマットで包み始める。
「最近、私がよく行っているのは、市の図書館なの」
「えっ、図書館?」
驚いた反動で、お弁当箱を危うく落としそうになった私。
「うん、図書館で子供たちに絵本などを読み聞かせする活動があってね。子供が好きなのなら、行ってみないかってボランティアセンターの人に誘われたの」
「そっ、そう言うことかぁ……」
彩香は、話したついでにと言わんばかりに、そこでのことを明るい口調で話し始めた。
「最初は、私に本の読み聞かせなんて務まるかなって不安だったけど、一緒にやっている女の人がとっても親切というか優しくてね、私に手取り足取り教えてくれて……それに、その人、私の相談にいつも乗ってくれるの。私が将来、学校の先生を目ざしていることや、最近スランプに陥って受験勉強に力が入らないこととか、全部聞いてもらってね。『彩香ちゃんなら大丈夫。きっと、夢が叶うから』って、私を勇気づけてくれたりしていて……」
彩香の話を聞きながら、家族以外にそんな人が身近にいることがなんだか羨ましかった。私が週末に行っている特別養護老人ホームでも、施設長の女性が私の相手をしてくれているけど、いつも忙しそうに動きまわっていて、なかなか捕まらない。無理に足止めするのは気が引けて、私は私の赴くままに利用者さんの相手ばかりしているけど、そんなことばかりでいいのかなって、ときどき考えてしまう。
「へぇ、そんな人がいるんだ……」
「まるで、おばあちゃんみたいな人なんだ。私って、お父さんの方のおばあちゃんは早くに病気で亡くなったし、お母さんの方は事情があっていないんだ。だから、子供の頃からおばあちゃんがいる友達が羨ましかった。だからかな、その人に惹かれてしまうのは……」
「そっかぁ、彩香、おばあちゃん、いなかったんだ……」
そう返しながらも、彩香が漏らした『お母さんの方の事情』とはどういったことかが気になった。だけど、他人の家のことだし、いくら友達でもそんなことを深く訊く訳にはいかないし……。
すると、彩香は制服のリボンを取ると、ブラウスの首元のボタンを一つ外して、何かを見せてきた。
「ほら、このネックレスね、こないだの私の誕生日に、その人がプレゼントしてくれたんだ。オーダーメイドで作ってもらったって話していたけど……」
彩香が見せてきたのは、プラチナのネックレス。チェーンの先に、錨と山を模した飾りがついている。この西宮から神戸のあたりの風景をモチーフにしたものだろうか。
「へぇ、プラチナだなんてすごいね。なんだか高そう……」
何も考えずに私は思ったことを言っただけだったが、彩香はその言葉が心に引っかかったのか、それまでの明るい表情を一転させて、やや俯き加減になった。
「うん……そうなんだ。貰ったときは喜んで受け取ったんだけど、家に帰ってお母さんに見せたら、ものすごく高価なものらしくて……私、その人とは図書館のボランティアを始めてから出会っただけだったし、いくら誕生日プレゼントだからと言っても、そんな高いものを受け取っていいのかなって悩んでいるの」
「そっ、そうなんだ……そんなにも高いものだったんだ……」
そう言いながらも、その続きの言葉がすぐに見つからない。その女性がどんな人かわからないけど、彩香に高価なものをプレゼントするくらいだから、よほど彩香のことが気に入ったのだろう。私だったら、それがどんなものであれ、その人の気持ちをありがたく受け取って、もらったものは大事に使うかな。
「彩香、そんなにも難しく考えなくてもいいんじゃない。プレゼントに値段は関係ないよ。多分、その人は、彩香と一緒にいて嬉しいんじゃないかな。その人、おばあちゃんくらいの年齢の人なんでしょ。それなら、おばあちゃんが孫を可愛がるみたいな、そんな気持ちでくれたんじゃないかな」
私の言葉に、少し安心したのか、彩香は声のトーンを上げた。
「そっ、そうだよね。誰かに何かをプレゼントするのに、値段なんて関係ないよね。私もその人と一緒にいて楽しいし、きっと陽茉莉の言った通りだと思う。だから、お礼の気持ちを込めて、これからもこのネックレスをつけて、図書館に行くことにするよ」
彩香の表情が元に戻ったのを見て、私はニッコリ微笑む。それから、校舎の時計台にちらっと視線を向けた。話に夢中になってしまって、時計の針は午後の授業が始まる数分前を指していた。
「あっ、いけない、もうこんな時間。彩香、そろそろ行かないと、次の授業が始まっちゃうよ」
「ほんとだ。つい喋り過ぎちゃったね。陽茉莉、一緒に行こうよ」
そんな言葉を交わして、私たちは穏やかな光が降り注ぐ校庭を駆け出したのだった。




