第一章 陽茉莉 エピソード3
その日、駅で彩香と別れてから家に帰った私は、部屋着に着替えた後、なんとなく自分の部屋に居づらくなって、一階のリビングに下りてきた。居づらいと思ったのは、私の部屋の勉強机に置いたままになっていた参考書などを見てしまったから。いつかやるだろうとか、やらないといけないと思って、本屋さんに立ち寄ったついでに勢いで買ったものだったが、いざ家に帰ってみると、ページを開く気にはなれず、机の上に置いたままになっていた。
ソファーに座り込んだ私は、テレビをつける気にもなれず、だからといっていつものようにスマホを触るのにも飽きてしまって、ただぼんやりとリビングを眺めていた。
彩香の話を聞いていて、正直言って羨ましいと思った。まるで彼氏ができたかのように、心をときめかせて喋っていた。自分の将来に向けて、今やるべきことが見つかって、きっと毎日が充実しているのだろう。それに比べて私の目の前に広がっているのは、ほんの少し先も見渡せないような濃い霧。ここは海が近いから海霧。
彩香は、自分の将来が、実はすぐそばにあるようなことを話していたけど、私のそばに何があると言うのだろう。彩香と違って、中学・高校と部活はやってこなかったし、アルバイトの経験もない。学校の勉強もいまいちだし、何か辛いことがあったら、すぐに母に甘えてしまっている。
「私って、何? 私はどこに向かおうとしているの?」
そんなことを考えていたとき、ふと棚の上に飾ってある人形が視界に留まった。フェルトの生地で作られた、掌に乗りそうなサイズの三体の人形。男の人と女の人との間に、少し小さな女の子が配置してある。祖母が、集会所の習い事で作ってきたものだった。それをリビングに飾っているということは、そこにあるのは私たち家族三人の姿を模したものだろう。
家族三人の人形の中に、祖母の姿がないのは、祖母が私たちに遠慮しているからだろうか。実は私の祖母、元々は少し離れたところで、一人暮らしをしていた。母がまだ幼かったときに私の祖父である夫を事故で亡くしてから、パートの仕事をかけ持ちしながら一人娘である母を、女手一つで育ててきたという。
幼い頃に母に連れられて、何度か連れて行ってもらった祖母の家。そこで会う祖母はさばさばしていたと言うか、実の孫の私にも決して素性を見せない人だった。私が顔を見せても、他のクラスメイトたちがそうであるように、「陽茉莉ちゃん、よく来たね」と言って、祖母は私のことを可愛がってくれなかった。あまりにさっぱりしているものだから、私のことが嫌いなのかと思ったことも一度や二度ではない。そんな祖母のことを、私は次第に疎遠に感じていき、いつしか祖母の家には寄り付かなくなったのだが……。
あれは、私が高校に入ってすぐのことだっただろうか。それまで元気だった祖母が、突如倒れたのだ。原因は、仕事のし過ぎによる過労。たまたま、倒れたのが職場の病院の中だったので、すぐに処置が施されて大事には至らなかった。七十を超えてまで、決して人の世話になりたくないからと、朝から晩まで近くの病院で清掃の仕事をしていたようだが、身体の衰えには逆らえなかった。そのことがあってから、母は毎日のように祖母の家を訪れては、身のまわりの世話をするようになった。母がパート先と祖母の家とを慌ただしく往復する日々が続き、母の身体を心配した父が決断して、祖母を引き取ることにしたという訳。もちろん、両親の説得に、祖母は最後まで首を縦に振らなかったようだけど、仕事先で倒れたという前科があったので、しぶしぶ両親の申し出を受け入れて、私の家で一緒に暮らし始めたというのが、これまでのいきさつだった。
私の家で一緒に住むようになってから一年以上が経つけれど、祖母は未だに私たち家族に気を遣っているように見える。ことあるごとに、「迷惑ばかりかけてごめんね」と、孫の私にも頭を下げて言い出す始末で、私はそんなことは少しも感じたことはないし、むしろ、祖母と一緒に暮らすことができて嬉しく思っているのだけど、祖母にとってはどうもそう思えないみたい。きっと、早くに夫を亡くして、自分一人でなんとか生活していかないといけないという責任感が人一倍強くて、祖母が心を落ち着かせるのを妨げているのかも知れない。
そんな祖母が、唯一楽しみにしているのが、近くの集会所で開かれる手芸や詩吟、書道やお琴などの教室。ずっと家に籠っているのを見かねた母が、それらの教室に参加することを勧めて、試しに参加してみたところ、祖母と同年代の人たちがたくさんいてすぐに打ち解けることができたからか、今では毎日のように集会所に行っては、夕方遅くまで帰ってこない日々が続いている。
そこでの活動が余程楽しいのか、最近は私の方から訊けば、少しずつ集会所でのことを話してくれるようになったのだが……。
その祖母は今も集会所に行っており、母もパートから帰って来ていない。こうして、誰もいない家で過ごすのにも慣れてしまったけど、何もやる気にならないので、時間が過ぎるのが長く感じられる。
「あっ、そう言えばあのパスケース、どうなったのだろう」
不意に、昨日、母と顔を合わせて首を傾げたパスケースのことを思い出した。確か、誰のものかわからずに、そのままダイニングテーブルの上の、カゴの中に入れておいたはず。ソファーからゆっくり立ち上がった私は、そのままダイニングテーブルへと向かう。冬になったらみかんを入れておく丸いカゴ、今は飴玉やチョコレートなどがいくつか入っているだけのカゴの中に、それは入ったままになっていた。
それはそうなのだ。私と母の知らないものだったし、祖母のものでもないとしたら、誰かが持ち去っていてはおかしいのだ。
私は、なんとなくパスケースを手に取ってみる。雑貨屋さんとかに置いているような合皮のケースで、色はベージュ。男の人が使っていても違和感はなさそうだし、母が普段使いに持っていたとしても、おかしくはなかった。
中にはポケットがいくつかついていて、ICカードの他に診察券や健康保険証などのカード類が収納できるようになっていて、試しに他にカードが入っていないかを確かめてみたけど、そのようなものは入っていなかった。
「持ち主がわかると思ったんだけどな」
つまらなさそうに唇を尖らせた私は、開いていたパスケースをパタンと折りたたんでカゴの中に戻そうとしたのだが、そのとき何かがポロリとこぼれ落ちた。
「なんだろう?」
そう思って、拾い上げたのは数センチ四方の小さな紙。いや、写真シールだった。ゲームセンターなどに置いてあるプリント機で印刷したもの。本来は、何枚かの写真が一枚のシートになって出てくるものだが、今、私の目の前にあるのは、その中の一枚をハサミで切ったもの。
プリント機の写真なら、私もこれまでに何度も撮ったことがある。こないだも、遊びに出かけた先で、彩香が「一緒に撮ってみようよ」と言い出して、制限時間ギリギリまで粘ってスタンプを貼りつけたり、日付を書き込んだりした。どちらがどの写真シールをもらうかになって、結局じゃんけんで決めたのだったかな。
「誰だろう、ここに写っている人は……」
ややぼやけていてはっきりとはわからないが、どうやら私や母ではなさそう。その人が着ている紺のジャケットとモカのAラインスカートを見ていた私は、
「えっ、もしかして、おばあちゃん?」
と、声を出してしまった。
写真の撮り方がよくわからなかったのか、顔の部分がぼやけていて表情までは見えないが、なんとなく顔の形が祖母に似ている。それに着ている服も、祖母がよく集会所に行くときに見かけるものと一致する。
よほど慌てて撮ったのか、プリント機の後ろのカバーがずれていて、背景の半分ほど外の景色が入り込んでしまっている。高層ビルの一部と思われるものが縦に写っていて、高架の線路を、空を飛ぶように電車が走っている。
「おばあちゃん、これじゃ、せっかく撮った写真シールが台無しじゃない」
私は、誰もいないことをいいことに、さっきから呟いてばかりいる。
不思議なのは、祖母と思われる女性が一人で写っていたこと。普通、こういったプリント機は、友達同士やカップルなど、複数人で撮るものだ。一人で撮ってはいけない決まりはないけれど、まわりの目が気になって、私なら一人で撮る勇気が湧かない。
仮に、そこに写っているのが祖母だったとして、一体何のためにこんなものを撮ったのだろうか。ちゃんとした写真が欲しければ、コンビニなんかによくあるような証明写真機で撮れば、もっときれいに写るのに……。
訳がわからなかった。それにこの写真シール、パスケースのポケットの間から出てきたような気がするけど、でも祖母はパスケースのことは知らないと言っていたみたいだし……。
「一体、どういうことなんだろう……」
私は、狐につままれたような気分で、写真シールをパスケースのポケットに挟むと、今度こそパタンと閉じて、カゴの中に戻したのだった。
そのとき、玄関の扉が開く音が聞こえた。「お母さんかな?」と思いつつ、私は玄関に出てみる。
帰ってきたのは、母ではなくて祖母だった。手には、集会所で作ったと思しき、うさぎのぬいぐるみ。
「あっ、おばあちゃん、おかえり」
祖母は、出迎えた私の姿に気づかなかったのか、私がかけた声に肩をハッと大きく上げて驚いていたが、すぐに平静を取り戻すと、
「ただいま」
とだけ言って、そそくさと自分の部屋に向かおうとする。
「おばあちゃん、そのぬいぐるみ、作ったの?」
「えっ、あぁ、これね。今日は手芸教室があったから、作ってみたんだけど……」
私が、とっさに訊いたことに、祖母は気まずそうに答える。
「おばあちゃん、せっかく作ったんだから、それ、玄関に飾ってみない? かわいい人形だし、玄関が明るくなっていいと思うんだけど……」
私は、祖母が少しでもこの家に打ち解けることができるようにそう言ったのだが、祖母はきまりが悪そうに眉をひそめると、
「そんなのいいわよ。みんなに迷惑でしょうから」
と、素っ気ない口調で答えた。
それから、祖母は逃げるように一階の奥の、自分の部屋へと向かう。その後ろ姿が、私にはひどく寂しそうに映って見えていた。




