第一章 陽茉莉 エピソード1
「陽茉莉、どうだった?」
ある日、私が学校から帰って来るなり、先にパートから帰っていた母が訊いてきた。母が訊いた「どうだった?」とは、私がダイニングテーブルの上で見つけたあのICカードのこと。
私が見つけたあの日、パートから帰って来た母に、パスケースを置き忘れていたことを伝えたら、母は訝しそうに持っていた鞄の中をまさぐって、財布を取り出したのだった。
「お母さんが使っているカードは、ちゃんとここに入っているわよ」
そう言って、母が見せてきたのは、ダイニングテーブルの上で見つけたものと同じ図柄のカード。違ったのは、母がパートで通勤するために、隣の駅までの通勤定期券をカードに乗せていたこと。カードの表面は、リライト機能が施されていて、駅の券売機で定期券の情報などを表示させることができる。
私は、とっさに首を傾げた。念のために、二階の自分の部屋に上がって、通学用の鞄の中からパスケースを取り出してきたけど、そこに入っているのは私の家の最寄り駅と、通っている高校の近くの駅の名前が印字されているIC定期券。つまり、私が使っているカード。
それじゃ、ダイニングテーブルの上に置かれていたパスケースは、一体誰のものかとなって、母がとっさに思い浮かべたのは父の雅人だったが、父は単身赴任で九州に行っている。赴任した当初は、毎週のように帰ってきていたけど、最近は帰るのが面倒になったのか、それとも仕事が忙しいからか、ここ一か月ほど、顔を見せていない。
今朝、母が家の用事を終えてパートに出かけるときには、そんなものはテーブルの上になかったと言うから、父の持ち物であるはずはなく、私と母は顔を見合わせたのだった。
あと、考えられるとしたら祖母だが、祖母は今年で七十四になる。最新の女性の平均寿命が八十七歳に達したと、こないだ見たニュースで伝えていたけど、祖母は少しずつ足腰が弱くなりながらも、まだまだ元気な方だった。だから、パスケースのことを母がそれとなく祖母に訊いたのだが、祖母は知らないと言う。それはそうなのだ。若い頃からあまり遠出をしたがらなかったという祖母が、電車のICカードを持っているはずはないのだ。いつも出掛けるとしたら、近所の集会所ばかり。そこで、知り合いがたくさんできたと喜んでいたほどだったから。
そこで、とにかくICカードにお金が残っているのかと、どこに行くのに使ったのかを調べてみるために、私が学校の帰りに駅で、利用履歴を印字してくることになったと言う訳。駅の券売機にカードを入れると、残高が確認できるだけではなく、どの路線に乗ったのかまでわかる。高校の友人の彩香が、アルバイトの交通費を請求するために、よく履歴を印字しているのを見ていたから、昨日カードが見つかったときに、試しに印字してみることになったのだった。
「カードには五千円以上も残っているみたいだよ。それと、行き先だけど……」
印字した定期券サイズの紙を見ながら、私は母に告げる。
「三宮に宝塚でしょ。そして、仁川……」
日付はバラバラだけど、家の近くの駅から私鉄電車に乗って、それらの場所を巡っているようだった。それも一度や二度ではなくて、日を置いて何回も……。
「えっ、三宮と宝塚、それに仁川?」
オウム返しをする母。そしてぽかんと口を開けた顔からは、どうやらそれらの行き先に思い当たる節はなさそうだった。
私は、とっさに頭の中で、電車の路線図を広げてみる。
「三宮って、もちろんあの三宮だよね。私もときどき彩香と一緒に遊びに行ったりするけど、宝塚はお母さんに歌劇を観に連れて行ってもらったとき以来だし、仁川ってまさか競馬場?」
私がそう呟くと同時に、母と目が合った。まるで訳がわからないといった感じで、戸惑いとも唖然とも取れる表情を浮かべている。
「お母さんも、よくわからないわ。どういうことだろう」
「誰かがこの家に入ってきて、このカードをパスケースごと忘れたとか?」
「ひっ、陽茉莉、そんな恐ろしいこと言わないでよ。盗られたものなんてないんだから……」
思いつきで言ったことに、母が慌てて否定しようとする。
「じゃあ、このカードは一体……」
私たちは、顔を見合わせながら、首を傾げるばかりだった。




