第三章 おばあちゃん エピソード5
私が祖母の部屋に入ったとき、祖母は炬燵に入って何か本のようなものを開いているところだった。
「おばあちゃん、ケーキ持ってきたよ」
いつものように私がデザートのケーキを運んできたと思ったのか、祖母は、
「あら、それは申し訳ないね」
と、素っ気なく答える。
「ねぇ、おばあちゃん、ちょっとそこに座ってもいい?」
そことは、炬燵布団の中のこと。祖母は、ハッと肩を大きく上げて驚いていたが、祖母が有無を言う前に私は炬燵の中に入ってしまっていた。
私と直角に並んで座ることになった祖母は、どこかよそよそしい。私と、目を合わせようともせずに、口元をもごもごとさせている。突如、炬燵布団に入ってきた私に何を話せばよいのかに、戸惑っているのだろうか。
私は、話題を見つけようと机の上に目を遣ったとき、祖母が今まで眺めていたのがアルバムだとわかった。
たまたま開いていた、どこかの石柱の門の前で撮ったと思しき一枚の写真。辛うじて、『大学』と彫られた文字が見える。白地に水玉模様のワンピースを着たセミロングの黒髪の女性、筋の通った目鼻立ちは、清楚という言葉がピッタリのようだった。恐らく祖母だろう。年齢は、二十歳くらいだろうか。
祖母は、私がその写真を見ていることにようやく気づいて、「あぁ、これは」と慌てた様子でアルバムを閉じた。アルバムの表紙には、『追憶』と大きく印字されている。今風に書けば、『My memory』なんて言葉になるのだろうか。
私は、祖母がそのアルバムを、後ろの本棚の一番下の段にしまうのを見届けてから、徐に口を開いた。
「ねぇ、おばあちゃん。おばあちゃんって、学生の頃、好きな人がいた?」
その言葉に、祖母は口を大きく開けて唖然としているようだったが、祖母が話しやすいように、私はわざと砕けたものの言い方を続けた。
「私さぁ、実は好きな人がいたんだよね。隣のクラスの男の子。ずっと話がしたいと思っていたけど、話しかける勇気がなくて、その人のことを遠目から眺めていたの。でね、ある日、その子が別の女の子と歩いているのを見かけてさ、私、悔しくて悲しくて涙が溢れてきたんだ。そんなこと、お母さんには恥ずかしくて話せないじゃない。だから、おばあちゃんに打ち明けたんだけど……」
もちろん、話の前半は本当のことで、後半は私の作り話だけど、祖母と心を通わせるためには、そのくらいの嘘はついても許されるだろう。祖母は、私がしんみりと話すのを、視線を宙に浮かべながら聞いていたが、私が「悔しくて悲しくて」と言ったあたりから、少しずつ私に顔を向け始めた。
「でもね、今はもう平気。吹っ切れたと言うか、その人が幸せになれればいいなって、心の中で願っているんだ。私ね、その人を好きになってみて、あんなにももやもやした気持ちを抱えているくらいなら、ちゃんとその人に自分の気持ちを伝えておくべきだったと思ったんだ。だって、今しかないもんね。その人と同じ学校にいられるのは……。だから、もう決めたんだ。今度、誰かを好きになったら、ちゃんと自分の口で気持ちを伝えるって。失敗してもいいんだ。もう、後悔はしたくないから……」
穏やかな口調で話すつもりが、つい声に力が籠ってしまったのは、今の私の気持ちが現れていたからだろうか。本当にそう思う。恋でもその他のことでも、過ぎ去った時間は二度と取り戻せないのだ。だけど、これからのわたしなら、いくらでも創っていける。その未来のわたしが後悔しないように、私は今と言う時間に正直に生きていたい。
いつしか祖母と視線が合ってしまっていて、祖母が不意にそれを逸らしたかと思うと、壁を見つめながら徐に口を開いた。
「陽茉莉も、学生しているのね」
「えっ?」
祖母は、私の反応を気に留めることなく続ける。
「あれは、大学生の頃よ。私、文学部の学生だったの。本が大好きでね、暇ができたら時間が経つのも忘れて、本を読み耽っていたわ。当時の大学は、まだまだ女子学生が少なくてね。男子学生たちは、女子学生たちを取り合って、デートに誘ったりしていた。私、これでもモテたのよ。お茶に誘われたり、『一緒に映画を観に行きませんか』と言って、洋画鑑賞に誘われたり……」
「へぇ、なんだか、わかるような気がする」
いつしか、祖母に微笑みかけている自分がいることに気づいた。
「でも、私は、全部断ったの。だって、みんな流行りの服ばかり着て、親の車で乗りつけたりして、下心が見え見えじゃない。もちろん、これでも女子学生だったから、恋の一つや二つは夢見ていたわ。そんなときに、一人の男子学生が現れたの。よく言えば真面目、悪く言えば地味。毎日、同じような服ばかり着ていて、まるで飾りっ気のない人だった。でもね、私と同じで、いつも図書館に籠って本ばかり読んでいたその人のことが、少しずつ気になり始めたの」
「それで、その人とはどうなったの?」
話の先を急かすように、訊く私。
「ある日、大学の広場のベンチで借りてきた本を読んでいたら、声をかけて来てくれたの。私が読んでいた本のタイトルを見て、その物語の構成が斬新だとか、その本の作者には先見の明があるとか言ってね。話し出したら止まらないって感じだった。きっと、他の女子学生の前でそんなことをしたら、すぐに嫌われてしまうかも知れなかったけど、その人が熱心に話している姿を見ていて、不思議にも私は嫌な気がしなった。それどころか、ますます気を惹かれていってね。いつしか、一緒に並んで講義を受けるようになったのよ」
なんだか、聴いていて素敵な話だった。二人の男女が、仲睦まじそうに肩を並べて、講義に耳を傾ける姿が思い浮かんでくる。
「それじゃ、休みの日にはその人と一緒に、デートにも出かけたの?」
祖母は、うっとりと目を細めると、少し間を置いてから続きを話し始めた。
「電車に乗って、色々なところに連れて行ってもらったわ。宝塚に行って歌劇を観たり、神戸の街を歩いて、買い物を楽しんだりした。そうやってデートをしていても、手もまともに繋げない人だったのよ。でも、今思えば、あの頃が一番楽しかったわ。付き合って一年経った日には、口づけを交わして、将来を誓い合ったりもした」
そこまで話したところで、祖母は口をつぐんだ。口もとをしきりに動かしているのは、その先のことをどう話そうかと、思案しているのだろうか。
「でもね、結局その人とはその後に色々あって、別々の道を歩むことになったの。言葉では言い表せないほど悲しかった。残酷な運命に、命を投げ出したいと思ったこともあった。でも仕方がなかったの」
祖母が漏らした『仕方がなかった』の意味は、さっき母に訊いたことで、なんとなく想像ができる。好きだったその人との結婚に、越えられない大きな障壁が立ちはだかったのだろう。そのとき、もしも祖母が身ごもっていたか、すでに出産していたとしたら……。いや、そんなことはまさか私の口から訊けない。
祖母は、さっきまでの穏やかな顔から一転して、何かを悔いるような、悲壮感に満ちた表情を浮かべている。それは、言葉では言い表せないような、暗い出来事があったことを、まさに物語っていた。
恐らく、齢を重ねた祖母は、悔恨や追憶、その他さまざまな感情を胸に秘めて、過去の自分を遡っていたのだろう。その人と出会った母校に何度も足を運び、デートで訪れた宝塚の街を歩き、今のカップルたちがやっているように、三宮でその人との思い出を写真に収めようとした。それらの場所を巡ることは、祖母にとって、自分なりの答えを見つけ出すことだったのかも知れない。そう、人生の意味付けとしての答えを。そういう意味では、あのICカードの乗車記録は、そんな祖母の心の旅路を記録したものだったのだ。
祖母の瞳から、一滴の涙がこぼれ落ちたように見えた。そう、何かを必死に探し求めて止まない、希望に満ちた涙。
私は、祖母にかける言葉を、必死に探した。だけど、考えても到底思い浮かばなかった。思い浮かばなかったので、祖母の俯いた顔に向かって、私はこう話しかけた。
「おばあちゃん、素敵な人と出会えて、幸せだったんだね」
それを聞いた祖母は、いつまでも、涙を流していた。




