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第六話 陥穽

人生最悪の朝だった。


「……だるぅ」


クリサスは死んだ魚のような目で、青空を模した天井を見つめていた。

寝不足だった。


ミラの死。 アズサの警告。 ヘルムートの二つの鼓動。

どれひとつとして、まともに消化できていない。


──コンコン。


「転入生くーん。生きてるー?」


扉の向こうから、間延びした女の声。


「……誰?」


「寮監のマルフィスだよー」


「何?」


「試験だよ試験! すっぽかすと退学だよー」


「……」


「むう!」


──ドンドンドンドン、ドンドンドンドン!


「うるせぇよ!」


クリサスは思わず部屋を飛び出した。


「わぁお、イケメンくんだね」


「っ、そういうお前は美人だな」


クリサスは実につまらなそうにお世辞を言った。マルフィスは満更でもなさそうに、俯せると、クリサスの袖を引いて、ボソッと。


「軟派者」


数分後。

制服に着替えたクリサスは、鏡の前で顔をしかめていた。

青と白を基調としたレガリア学府の制服。 肩章つき。 金刺繍入り。


「似合わねぇ……」


というより、落ち着かない。


「ううん、そんなことないよ! とっても素敵」


クリサスのベッドに座っていたマルフィスは鏡との間に割り込むと、上目遣いで、クリサスのネクタイをいじらしく指に絡めた。

クリサスは露骨に顔を顰めた。


「近い」


「学生ってのは、距離感が大事なんだよぉ?」


「初対面でやる距離感じゃねぇだろ」


「えー、じゃあ運命?」


「軽すぎる」


マルフィスはくすくす笑いながら、ネクタイをきゅっと締め上げた。


「ぐぇ」


「はい、完成」


鏡の前には、青と白の制服を纏ったクリサス。

肩章。 金刺繍。 長い外套。

そして、その黒い目。


「……」


以前の自分なら、似合わないなどとは思わなかっただろう。 どんな服を着ても、どんな場所にいても、“最強”という事実がすべてを従えていた。


だが今は違う。


制服に着られている感覚。 場違い。 借り物。


「やっぱ変だろ」


「ううん」


マルフィスは首を横に振った。

その目はとろんとしていて、ネクタイを引き寄せた。


「すっごいカッコいいよ。……好き、クリサス」


「会って十分も経ってねぇだろ」


「恋って、時間じゃないんだよぉ?」


マルフィスは甘えるように笑った。

近い。

吐息がかかるほど。 柔らかな香水の匂い。 それに混じる、女の体温。

クリサスは露骨に顔をしかめた。


「……寮監って、こんな暇なのか」


「失礼だなぁ。これでも忙しいんだよ?」


「見えねぇ」


「だからサボってるの」


「最低だ」


「知ってる〜」


マルフィスはくすくすと笑いながら、クリサスの制服の襟を指先で整える。

妙に慣れた手つきだった。


「しかし君、本当に綺麗な顔してるねぇ」


「男に言う台詞か?」


「綺麗なものに性別なんて関係ある?」


さらりと言って、マルフィスはクリサスの胸元へ指を滑らせた。

どくん。

二つの鼓動。

マルフィスの指先が、一瞬だけ止まる。


「……ふぅん」


「何だよ」


「別に?」


だがその目は、ほんの僅かに細まっていた。

クリサスはその変化を見逃さない。


──気づいた?


いや。 ただの偶然かもしれない。


マルフィスは何事もなかったように微笑むと、そのままクリサスをベッドに座らせた。それから肩に手を置きながら、膝に跨った。


「おい」


「なぁに?」


「重い」


「乙女に言うことじゃないよぉ?」


「自分から乗ってきただろ」


「だって君、ぜーんぜんドキドキしてくれないんだもん」


「……」


「試してあげよっか?」


するり。

マルフィスの指が、クリサスの首筋をなぞる。

やわらかい。 熱い。

そのまま耳元へ唇を寄せ、


「ねぇ」


甘ったるく囁いた。


「キス、したことある?」


「…………ある」


「ふぅん?」


「何だよその反応」


「いや、なんか意外で」


「どういう意味だ」


「もっと人に興味なさそう」


それは、否定しづらかった。

クリサスが黙っていると、マルフィスは満足そうに笑った。


「じゃあさ」


彼女は黒髪をさらりと揺らしながら、クリサスの頬へ手を添える。


「キス、しよ?」


返事を待たず、唇が重なった。

やわらかい感触。 甘い匂い。 熱っぽい吐息。

マルフィスは最初こそ軽く触れるだけだったが、やがて悪戯っぽく笑いながら、深く角度を変える。


「んっ……」


制服の布越しに、細い指が胸元を撫でた。

クリサスは眉をひそめる。


「お前……」 


「やだ?」


「……卑怯だ」


「ふふっ」


マルフィスは嬉しそうに笑った。

そのまま首筋へ唇を落とす。

ちゅ、と小さな音。


「っ、おい」


「反応かわいー」


「うるせぇ……」


マルフィスは完全に面白がっていた。

膝の上で、両腕を首へ回す。

長い黒髪が肩へ落ち、互いの体温が近づく。


「ねぇ、クリサス」


「……何」


「君、いま寂しいでしょ」


その言葉に、クリサスの目が僅かに揺れた。

ミラの死。 アズサの警告。 失った力。 知らない学園。

全部、胸の奥に沈殿している。


マルフィスはその顔を見て、ふっと微笑んだ。


「そういう顔、放っておけないんだよねぇ。……ね、私じゃダメ?」


再び唇が重なる。

今度は長かった。

クリサスの制服のボタンへ指がかかり、外套がベッドへ滑り落ちる。


柔らかなシーツの音。

朝の青い光。

どこか遠くで、始業を告げる鐘が鳴っていた。

だがその音さえ、今は妙に遠い。


「……試験」


クリサスがぼそりと呟く。

マルフィスは至近距離で笑った。


「サボっちゃう?」


マルフィスの細い指が、するりとクリサスの胸元を撫でた。

青と白の制服。 金刺繍。 整えられたネクタイ。


そのきっちりとした格好を、まるで壊すように。


「……なぁ」


クリサスは低く言った。


「やっぱ寮監って、こんな暇なのか?」


「んー?」


マルフィスは返事の代わりに、クリサスの喉元へ唇を寄せた。


柔らかい吐息。 くすぐるような熱。


「転入初日ってさぁ、一番不安で、一番寂しいでしょ?」


「……」


「だから、優しくしてあげるの」


指先が制服のボタンを外す。 ひとつ。 また、ひとつ。


「お前、誰にでもこんなことしてんの?」


「嫉妬?」


「質問」


マルフィスは唇だけで笑った。


「さぁねぇ」


そのまま彼女は、ベッドへクリサスを押し倒した。


軽い。 以前のクリサスなら、絶対に倒れなかった程度の力。


なのに今は、身体が簡単にベッドに沈む。


「……クソ」


「ふふ」


マルフィスは跨った腰を少し上に動かすと、クリサスの黒髪へ指を差し入れた。


「ほんと綺麗な顔」


「褒めても何も出ねぇぞ」


「じゃあ別のもの、出してもらおっかなぁ」


「最低な台詞だな」


「でも男の子って、こういうの好きでしょ?」


返事の代わりに、クリサスは彼女の腕を掴んだ。


「引き寄せてはくれないんだね、臆病者」


マルフィスは妖艶に煽りながら、唇を落とした。


最初は浅く。 だがすぐに熱っぽく舌を絡めてくる。


「……っ」


頭がぼうっとした。


柔らかい。 甘い匂い。 熱い体温。


鼓動がうるさい。


人間の心臓が、馬鹿みたいに騒いでいる。


「ん、……ふ」


マルフィスは唇を離すと、蕩けた目で笑った。


「可愛い反応」


「うるせぇ……」


耳まで熱い。


それが余計に気に食わなかった。


マルフィスは楽しそうに笑いながら、クリサスの制服を乱していく。


外套が床へ落ちる。 白いシャツが皺になる。 ベルトの金具が、かちゃりと乾いた音を鳴らした。


窓の外では、朝の光が青々しく広がっていた。


なのに部屋の空気だけが、妙に熱い。


「ねぇ、クリサス」


「……なんだよ」


「今だけ、嫌なこと忘れられる?」


その声だけ、少し静かだった。


ミラの死。 アズサの警告。 ヘルムートの異様な鼓動。


胸の奥に沈んだままの、変わりない不快な現実。


クリサスは目を伏せた。


「……知らねぇ」


「そっかぁ」


マルフィスは優しく微笑むと、額へ口づけた。


「じゃあ、忘れるまで付き合ってあげる」


それから先は、酷く曖昧だった。


シーツの擦れる音。 浅い呼吸。 熱。 肌。 絡む指先。


制服が崩れていくたび、自分が何者なのかまで解けていく気がした。


最強でもない。


神でもない。


ただ、熱に浮かされた、ひとりの男みたいに。


   ◇


気づけば、部屋は静かだった。


クリサスは初日からの遅刻に肝を冷やしながら、闘技場へと向かった。


その影。


マルフィスはちいさく微笑んだ。


「……みぃつけた、クリサス♥」


   ◇


「転入生貴様ー! 初日から適当な嘘で誤魔化そうだなんて、いい度胸じゃねぇか!」


「だーかーらー、寮監のマルフィスって女が──」


「寮監にマルフィスなんて野郎はいねぇ! そもそも第三学生寮の寮監は男だ!」


「……は?」


厳格な教師の怒声を浴びながら、クリサスは立ちすくんだ。


──じゃあ、アイツは誰だ?

【マルフィス】

グラマラスな肉体に、ひどく艶美な微笑を湛える。

第三学生寮の寮監を自称している──が、どうやらそうではないらしい。

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