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第五話 青天の霹靂

「──で、君の部屋はここねぇ」


ヘルムートは気怠げに指を差した。


レガリア学府、第三学生寮。 白煉瓦の外壁に青い蔦が這い、いかにも“名門校の寮”といった風情だ。


「へぇ」


クリサスは鍵を受け取りながら、ぼんやり廊下を見渡した。

長い。 やたら長い。


「無駄に広ぇな」


「世界最大の魔術教育機関だからねぇ」


「それ、便利な言葉だな」


ヘルムートは欠伸を噛み殺すと、壁にもたれた。


「一応言っとくけど、この学府、かなり特殊だから」


「特殊?」


「階級社会。実力主義。才能主義。血統主義。差別主義。努力主義。ま、青春の煮凝りみたいな場所だよ」


「最後だけ、聞こえはいいな」


「あとね」


ヘルムートは白い虹彩を細めた。


「弱い奴に、人権ないから」


「……」


「君みたいにね」


沈黙。

クリサスは、ふっと鼻で笑った。


「ま、別に慣れてる」


「へえ」


「人権なんて、もともとねーよ」


クリサスは口を尖らせた。

ヘルムートは声を低くした。


「人間じゃないもんね」


「……は?」


「気にしないで、妄言」


「自分で言うかよ」


クリサスは呆れたように苦笑すると、ヘルムートは適当に手を振った。


「それじゃ、私は寝るから」


「今来たばっかだろ!?」


「もう働いたよ。今日──いや、今月分はね」


「仕事量カスすぎねーか?」


「質が大事なんだよ」


そのまま本当に帰ろうとする。


「おい待て。最低限、説明くらいしろ。

この程度のこと、あの兵士にやらせておいてよかったはずだ。それをわざわざアンタが引き受けた理由、……なんかあるんじゃねぇのか?」


「あー……」


ヘルムートは面倒くさそうに頭を掻いた。


「それ、気まぐれ」


「嘘つけ」


「それより君」


「あ、話逸らした!」


「明日、試験あるから」


「……え?」


「君、正式には“特例編入”だから。昨日の今日で突然作られたぼく含めて誰も知らない新制度とやらで、突然編入してきたわけだ。実力、見せてもらわなきゃ」


「聞いてねぇぞ」


「今言ったし」


「そういう問題じゃ──」


「安心して」


ヘルムートは眠そうな目のまま、微笑んだ。


「君、弱いから。多分、最下位」


「……チッ、もういい寝てろ」


「うん、おやすみ」


ぱたん。

本当に帰りやがった。


「…………」


静寂。

クリサスはしばらく扉を睨みつけていたが、やがて深々とため息を吐く。


「クソったれ……」


鍵を開け、部屋に入る。

中は思ったより広かった。白い壁。 青い絨毯。 木製の机。 本棚。 簡素なベッド。

窓の向こうには、蒼穹の名に違わぬ、青々しい夜空──ブルーモーメント。


「……空まで青ッ」


ふと、胸を押さえる。


どくん。 どくん。

二つの鼓動。

そのうち片方は、相変わらず空虚だった。


「……」


クリサスは木製の机まで歩くと、そこに立てかけてある万年筆を手に取った。

切っ先が、──空中でさえ空気をきり裂き、文字が書けそうなほどに、──鋭い。


さっ、と振りかぶる。

シュッ、シュッ。

空気の裂ける、と云っては大仰な程度の軽い音。


「遅ッ」


無論。

クリサスにはその1秒足らずの素振りが、永劫のように退屈だった。


「遅すぎる。つまらない映画を1本観たあとの気分だ……ん?」


そこで、ふっと気づいたことがある。


──見える。


今し方の素振りは、尋常な人間のそれ。以前とはたとしえなく遅いが、それがコマ送りにさえ見えるのは、果たして尋常な人間のそれなのだろうか?


──わからない。


が、少なくとも動体視力というものは、能力とは没交渉にあるのかもしれない。

ともすれば、希望はある。

クリサスは、人間さながらになっただけで、必ずしも最弱となったわけではない……はずだ。


──いや、人間になったわけじゃない。


なぜなら今もこうして、神の心臓は活動している。能力を喪失したあの夜、確かに能力を喪失したその後に銃弾を受けていながら再生した神の心臓は、それ本来の役割は果たしているわけだ。


そこにないのは、あの強大な能力だけ。


クリサスは乱暴にベッドへ倒れ込んだ。

柔らかい。身体が沈んでいって、そのまま融けてしまいそうなほどに。

よく眠れそうだ。


「おやすみ」


クリサスは手の中の万年筆を逆手に、自らの右胸に立てた。


恐怖があった。手が震えていた。


──ザシュッッッ!!!


右胸に沈み込んだ万年筆。さっと抜くと、血が噴き出した。


痛い。胸が痛い。

なぜ痛い?

表皮? 肉? 骨? 血脈の悲鳴か?


神の心臓はドクドクと凄まじく搏動し、やがて止まる……かと、思えば心臓自身の傷口がたちまち塞がった。


また落ち着いた鼓動を取り戻す。ただ、依然空っぽ。


「イタタタタタタッ!」


クリサスは好奇心によって、神の心臓にこうして刃を立てることが何度かあった。

ご多分に洩れず、神の心臓は、神の心臓のままだった。


ただ、心臓以外が、まるで治らない。


いや、むしろ神の心臓だけが落ち着きすぎている。


だから余計に聞こえる。

人間の鼓動。

人間の鼓動が、この胸の大きな傷に、活動している。後先の考えないマラソンランナーのように全力で。


「クソ……馬鹿すぎんだろ、俺ッ!」


その時だった。


「転入初日に自殺未遂って、君、やっぱ大物だねェ」



扉を開けて、ヘルムートがニヤニヤとして立っている。


「ヘ、ヘルムートッ?!」


「ヘルムート()()、ね」


ヘルムートがため息を吐き、やれやれ、と首を振っている間にも、クリサスは出血多量でほとんど死にかけている。


「がッ、は、はやぐぅ……た、たす──」


「はいふぁい、ちょっど待っででェ、ふぁ~」


緊張感というものがないらしい。ベッドの上で悶絶しているクリサスに対して、ヘルムートは大きな欠伸をしながら歩み寄ってきた。


そして白衣の内側から、毒々しい紫色の液が入った注射を取り出した。


「ニシシ。ようやくこの新薬を使う時が来たようだね! 先生、実はちょっと興奮しております」


クリサスは口から泡を吹き始めていた。瞳の黒だけが、薄い光の中で動いている。


「いやァ、まだ路傍で死にかけていた鳩にしか使ったことなくてねー、その時は死んじゃったんだけど、ようやく被験者が現れて嬉しいよ!」


ヘルムートの熱弁に、クリサスの左胸の起伏は浅くなってきた。


「っと、ごめんごめん。今打つね。はい」


──チクッ


1秒、2秒、3秒、……10秒。


「あれ、死んじゃったー?」


「──!?!?!? プハァ。し、死ぬかと思った」


クリサスは勢い、ベッドから身を起こして、立ち上がった。


「お、成功だねェ」


「成功だねェ……じゃ、ねーよ! 遠のく意識の中で狂人が笑っていたんですが」


「いいじゃんか、助かったんだし。むしろ感謝されたいくらいだよ」


「ま、まぁそれはそうだけど」


「で、どうしてこんな真似を?」


何も言えない。


「なんか嫌なことあった?」


ヘルムートのはじめての優しい声音に、クリサスは罪悪感を以て押し黙った。


「それとも──」


ヘルムートは目を細めた。


「右胸の心臓を、確かめていたのかな?」


「!? な、何言って──」


クリサスは構えた。実に弱々しく──まるで仔犬が猛獣を威嚇するように──その目を睨んだ。


「とぼけるのか、反撥するのか、どっちかにしたら?」


ヘルムートは呆れたように首を傾げた。


「……」


クリサスは、今度は違う意味で、何も言えない。


「そう怖い顔するなよォ」


ヘルムートはクリサスに腕を伸ばした。


蛇が獲物を捕らえるように迫りくるその腕が、ゆっくりと見えたのに、クリサスは蛇に睨まれたように避けることがまるでできなかった。


クリサスは手首をヘルムートに掴まれ、その薄い胸板に身体を凭れかかった。


「!?」


どくん、どくん。

ヘルムートの胸の中から、二つの鼓動。


ヘルムートの腕のなかで、横溢する懐かしいぐらいに強大な力。

しかし、

かつてクリサスが持っていた力とは、まるで気色が違う。これは──


「あんたまさか…!!」


「そんなことより、君に手紙だ」


「そんなことじゃない!」


クリサスは怒鳴る、が、ヘルムートは落ち着いて言う。


「差出人は、──アズサ」


「……は?」


クリサスの表情が変わる。


このタイミングで?

アズサが?

しかもこの男に手紙を預けたのか、あるいは学校に預けたのか、どちらにせよ、メイファーズの存在がバレるような危機感のなさ。


クリサスは手紙をひったくるなり、ヘルムートに背を向けた。


「はいはい、空気の読める先生はもう寝ることにするよ〜」


ヘルムートは欠伸をひとつ、扉に手をかけた。


「ヘルムート。……次会ったら、話したいことがある」


ヘルムートはふっと微笑み、


「ヘルムート()()、ね」


手をひらひらと振って、立ち去った。


手紙を開くと、魔法で留めていたらしい音声が流れた。


『クリサスくん? 聞こえてるかなー?』


アズサだった。

いつもの気の抜けた猫撫で声。

だが。


『ちょっと困ったことになった』


その声音は、微かに硬い。


『一度しか言わないから、ちゃんと聴いて』


数秒の沈黙。

それから。


『第二部隊、壊滅』


空気が止まる。


『ミラちゃんも、多分、死んだ』


クリサスの黒い瞳から、温度が消えた。


『ぼくも、……正直まずい状況にある。──気、抜かないように。それだけ。じゃあ、またね』


音声が切れると、手紙は冷たい炎に包まれて消えた。


「……ミラ」


窓の外では、蒼い夜──ブルーモーメントの芝居がかった青春がどこまでも拡がっていた。

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