第二話 人間の鼓動
夢を見ていた。
オペラ座の興行。豪奢なステージ。
どこまでも透明で、美しい旋律と歌声。
澄み渡るような呼吸、自然な、当り前な音楽。
ちょうどよく、その美しさが身体の奥を充たしている。
それが、バタン。
暗幕が落ちた。星のない夜空のように真っ暗闇。
途端、オペラ座は、世界は、気味の悪いほど沈黙した。
耳の中を満たすのは、自らの味気ない鼓動だけ。
静かで、 寒くて、 暗くて、 それから、怖い。
──嫌だっ……!
そこで、クリサスは目を覚ました。
「っ、ぁ……」
喉が焼けるように痛い。
白々しい清潔な天井。薬品臭い空気。規則的な機械音。
知らない部屋だった。
「……病院?」
起き上がろうとして、胸に激甚の痛みが走る。
「ぐッ……!」
思わず胸を抑える。
「ふう」
──よかった、ちゃんとある、……二つ分の鼓動。
しかし、ひとつは消え入りそうなほどに不安定な拍動。
まるでそこに存在しているだけのような、何も入っていないからっぽの容器のような。
「あっ、起きたんだね」
聞き馴染みの、間延びした声。
視線を向けると、病室の扉を開いて立っているアズサ。腕には城下町で有名なパン屋『チェッロ』の、甘いパンがパンパンに詰まった紙袋を抱えて、もぐもぐとしながら、こちらをじっと見つめていた。
「……なんだその顔」
「いやぁ、ね?」
サイドテーブルに紙袋の置いたアズサは、窓を大きく開けると、その銀の縁に腰を下ろし、風を浴びた。
「クリサスくんでも、ちゃんと苦しそうな顔、するんだなーって」
「ぶん殴んぞ」
「にゃはは〜、コワーイ」
まるでこどもを相手するような、そんな芝居がかった調子。
クリサスは眉をしかめた。
「ここは?」
「あれ、知らないの? エリス郊外、メイファーズ管轄の秘密医療区」
「ああ、ここが」
「以前のクリサスくんには無縁の場所だもんね、知らないのも無理ないよ」
「どれくらい寝ていた?」
「三年」
「は?」
「うそ、三日」
アズサは舌を出して微笑んだ。
怒る気力も湧かない。嫌な沈黙が永い。
クリサスは白い毛布のうえで自分の右手を見た。
握る。開く。爪をすり合わせる。かさかさと、乾いた音が鳴った。
何もない。
あの感覚──生まれた時からずっと身体の中心にあった、強大で、暴力的で、万能だったもの。
やっぱり、綺麗に消えている。
「……夢じゃねえのかよ」
ぽつりと口辺に零れた声は、情けないくらいに弱弱しかった。
「ねえ、クリサス」
「なんだよ」
「ないんでしょ」
「…………」
「能力」
クリサスは答えなかった。
代わりに、右手をかざす。
沈黙。
何も起きなかった。
「……そっか」
アズサの声音を、クリサスははじめて読めなかった。
同情か、失望か、軽蔑か、あるいは無関心か。
「なんだよ、その反応」
「べっつにー」
アズサは窓枠から下りると、ベッドに坐り込むクリサスに近寄った。
そして鼻が触れ合うほどに近く顔を覗き込み、ちいさな手のひらをクリサスの胸のうえに置いた。
「ちゃんと心臓、ふたつなのにね。人間じゃない。ちゃんと神格者なのにね」
その言葉が、胸の表層の傷をえぐる。
クリサスは何も言わず、かっと睨む。臆せず、アズサは間近で微笑む。
「銃弾の撃ち込まれた心臓は、神の心臓のほうだった。だから今もこうして、平気で動いている。人間の心臓のほうだったら、今頃は心臓、ひとつだけだったのに」
アズサはそう言いながら胸をすっと指でなぞり、
「もっとも、神の心臓ひとつで生きる者が、果たして人間と呼べるかは、甚だ疑問だけどね」
「何が言いたい」
アズサは身を起こすと、目を伏せて言った。
「きみは紛れもない神格者だよ。能力をだけ喪った、神格者。だから、もうどうしようもないくらい、困惑しているんだ。──何が起きているんだろう」
アズサの眉宇には、たしかに不安が浮かんでいた。
「おい」
クリサスは努めて軽く言う。
「そんな顔すんなよ。どうせ一時的なもんだ」
「でも──」
「大丈夫。……だって俺だぜ?」
即答だった。実に闊達に微笑んでいた。その空元気が、かえって空気を重くした。
「最悪、剣でも振ってりゃなんとかなる」
「クリサスくん、剣なんてまともに使えないじゃん」
「うっせーよ」
事実だった。
クリサスとは、生まれながらにして圧倒的な男だった。
だから、
努力を知らない。
剣技体も、 魔術も、 戦術も。
全部、能力で圧し潰した方が早かった。
「……なあ、アズサ」
「ん?」
「俺、今どんくらい弱い?」
「それ、聞く?」
「いいから」
アズサは考え込む──ふりをする。
「うーん……」
そして。
「たぶん、軍学校の生徒の平均値くらい?」
「は?」
クリサスの顔が引きつった。
「冗談キツイぜ」
「マジ」
「マジ?」
「マジ。だって今のクリサスくん、実質ただ心臓がふたつあるだけの人間だし。……ま、身体能力は平均よりは上だろうけど」
その言葉は、思った以上に深く刺さった。
その瞬間、病室の扉が開く。
「ノウゼンカズラ」
長身の巨漢。ここに来るまでの間、顔を隠していたであろう深いフードを脱ぐ。
中には黄金色の絢爛たる飾緒の湛えた黒地の軍服が覗かれ、苦労の皺がいくつも印象した白い肌には、深い切創の刻まれた鋭い目が青白く沈んでいる。
エリス王国国防大臣、兼、騎士団団長──ノウゼンカズラ。 重力を操る魔人。
しかしその厳しい相貌とは裏腹に、腕には城下町で有名なパン屋『チェッロ』の、甘いパンがパンパンに詰まった紙袋を抱えて、もぐもぐとしながら、威厳たっぷりに佇立している。
「……お前もかよ」
呆れたようにクリサスとアズサは微笑み合う。サイドテーブルのアズサの紙袋を一瞥したノウゼンカズラは、その横に自らの紙袋を置き、にかっと笑った。
「よォ」
「よォ、じゃないが」
ノウゼンカズラは椅子に浅く座ると、無遠慮にクリサスの胸を押した。
「っっっッ!?!?」
「元気そうでなによりだ、クリサス」
「どこがだよッ! 殺す気か!?」
「なるほど。人間らしくなったじゃないか」
「笑えねえよ」
ノウゼンカズラは、ふっと深呼吸をすると、真面目な顔をした。
「……アイデス様がお呼びだ」
病室の空気が変わった。
「なんだって」
「お前の能力喪失についてだ」
「…………」
「今のお前の能力では、今までのように城の出入りは厳しいだろう。生憎、お前らがマスクをしないで任務を遂行するおかげで、その顔が奴らに知られている可能性だってある。念には念を、だ。囚人護送車に乗せて、顔を麻布で隠匿して地下牢から入ってもらう」
「おっと、随分と手厚い歓迎だな」
クリサスはため息を吐いて言う。
アズサはひどく面白がって、クスクスと喉を鳴らしている。
「それと」
ノウゼンカズラはアズサを見、静かに続ける。アズサもその目に睨まれ、笑いを堪える。
「アズサ、きみにはメイファーズとして動いてもらう」
アズサはこてんと小首を傾げた。
「いつものことじゃん」
「ああ、だが、──無論クリサスとは別行動になる」
アズサはクリサスの目を見やると、寂しそうに眉を寄せた。
「まあ、仕方ないかぁ。……それで、どんな任務?」
ノウゼンカズラは声をひそめ、ふたりの青年にはっきりと告げた。
「ガルリア社についてだ」
【ノウゼンカズラ】
エリス王国国防大臣、兼、騎士団団長。
豪胆な重力操作を得意とする魔人。
長身の巨漢で、黒い軍服を着、白く角ばった顔。鋭い目は青白く、深い切創がある。
厳めしい見た目とは裏腹に、面倒見がよく、クリサスから兄貴のように慕われている。
〈人間〉
潜在的な魔術の使えない人種。
〈魔人〉
潜在的に魔術の使える人種。
〈神格者〉
神の力の宿った魔人。
神格者となる者の対象はランダムであり、血筋、権力、才能に左右されない。まったくの偶然。
人間の心臓と神の心臓の、ふたつの心臓を持つ。
神の心臓は、人間の心臓が活動を続ける限り、あらゆる障害を修繕する。




