第一話 最強、喪失
鈍臭い夕立のあと。
「悪魔ァ?」
鉄臭い曇天の夜だった。
「うん、なんでもソイツは空腹のあまり、仲間の悪魔も喰べちゃうらしいんだ」
港湾区画第十三番倉庫。
彼方に殷賑な港を望み、ここだけは忘れ去られたように灰色の世界。
「それで能力まで? とんだ御伽噺だな」
積みあがったコンテナの隙間を、赤黒い血がどろどろと流れる。
「というより、……神話?」
またひとつ、灰色の世界が赤黒く塗られる。
「ま、あれだろ。こどもたちに読み聞かせる、飯はよく食えって、そういう話だろ」
クリサスとアズサの能天気な会話の頬を、無数の悲鳴はからっ風のように荒ぶ。
「おなか、壊しちゃいそう」
その喧々たる悲鳴は、しかし、沈黙した海をさえ渡らない。
「違いねェ──」
クリサスはオリーブグレージュの濃やかな髪を無雑作にかきあげると、ふっと、唇の端に白い歯を覗かせた。
「な、なんなんだよお前たち!!」
その怒声は馬鹿みたいに大きく、ふたりの興を実にちょうどよく冷ました。
「はぁ、なんだ。まだいたんだ。何人目だっけ」
クリサスは膝下で戦慄く男を見下ろしながら呟いた。
「三十──って、そっからは僕も数えてないや」
刹那。
恐怖に引きつった情けない男の顔は彫刻のように固まり、そのみっともない頭は、ごとり、と地面のコンクリートに落ちた。
一見、その腰に据えた剣の鯉口に、クリサスの指先が、つっと触れたに過ぎなかった。
「お見事ー」
アズサは実に淡々と、乾いた拍手をしてあげた。
「はあ、なんだって俺たちメイファーズが薬の売人駆除なんて、雑務を委せられたんだ」
「さあね、アイデスの考えることはわからないよ」
アズサは、やれやれ、と呆れたように首を横に振る。
クリサスはその頭を撫でてやると、視界の端にそれを見た。
「おーい、動くなよー」
クリサスの目の先、倉庫の裏へと繋がる鉄くずの往来に、一人が震えた足で立っていた。
──魔人か。
男の両腕に刻まれた魔術式が、暗がりのなかでやけに目立って発光する。
──いや、少し違うな。
「ま、待て……っ」
「待つ理由、あるか?」
「は、話し合えばわかる!」
男の声は震えながらも、たしかに時機をうかがっている。心の言葉が、腕の魔術式で読める。
「そういう割に、穏やかじゃないねぇ」
クリサスは向き直り、物憂げに首を揉むと、悠揚迫らず歩み寄る。
一歩、また一歩。
男の腕の魔術式は、恐怖に早まる動機とともに光を強める。
──やるしかないんだッ!! と、男は手のひらを前に出し、手印を結ぶ──はずだった。
「……は?」
「遅いっての、マジで」
クリサスは頬の窪みに軽蔑の影を落として、微笑。
男は、手のひらのない、切り株さながらの自らの腕をそこに見た。
「にゃはははは、だっさァ」
始終見学しているアズサは、クリサスの背で、まさに幸福な猫のような笑みを零した。
「おい、質問。最近、薬を流している連中について知っていることは?」
男の目は虚ろに黒。クリサスはじょりじょりした男の顎をくいっと持ち上げる。
「おい、聞いてんのか? お前のそれだって、──」
「無駄っぽいよ」
アズサは面白がって、下を指さした。
失禁。地面に転がるチープな手のひらが、汚れる。もとから汚いけど。
それに、立ったままの気絶。口辺に泡。
「この程度で、かよ」
クリサスは身をひるがえし、伸びをすると、誰憚らずおおきな欠伸をした。
「ねね、殺そっか? それとも捕縛ゥ?」
アズサはクリサスの前に屈みこむと、上目遣いで、実に朗らかに訊ねた。
「情報は大事だが、こいつが持ってるとは思えない」
「根拠は?」
アズサはいたずらっ子のように首を傾げる。クリサスは威風堂堂と断言する。
「勘」
「わあい、じゃあ信用できるね」
灰色の世界が、また、紅く染まる。アズサの白皙の顔も、今日はじめて汚れる。静寂。
事後、足許のそれは、夜目には鉄くずか人くずかも分明でなかった。
「……仕事終わりっと」
アズサが手鏡を片手にキューティクルのしるく黒髪を梳る姿を横目に、クリサスの耳がピクリと揺れた。
「ん? 今、なにか物音しなかったか?」
ふっと手鏡から顔を離し、頬を膨らませるアズサ。
「え」
「音楽」
「ぜんっぜん。脅かすの禁止ー!!」
アズサはわなわなと唇を震わせながら、その目にうるうると月影をうかべていた。
「……いや、やっぱり、少し気になる」
「えー。潮風の囁きじゃないのー? ねーえ、帰ろうよ」
クリサスはまるで導かれるように歩き出す。何とも知れない心地よい音楽に、誘われ。
「残党の可能性もある。帰りたきゃ、先に帰っても構わない」
クリサスの親切は時ににべもなく、アズサの意に染まない。ラビリンスのようなコンテナの往路に入ってゆくクリサスの背を、その背が見えなくなってからようやくアズサは追おうとした。
──プルルル、プルルル
「わっ?!」
突然の受信に、アズサはドキリと胸を張った。
心臓、止まるかと思った。
耳元のちいさな通信機に、事務的な声がすらすら流れる。
『メイファーズ諸君に告ぐ。メイファーズ諸君に告ぐ。アイデス様より、──帰還せよ。帰還せよ』
端的なものだった。突然ひとを脅かしたかと思えば、こちらがリアクションする暇もなく過ぎ去る。無味無臭の風のように、大袈裟の芝居。
「そのつもりだったし!!」
アズサはイライラして、そう怒鳴ると、クリサスの背はすっかり見当もつかずに消えていた。
「クリサスくーん。帰還の命令だよー?」
なんとなくそこであろうと目論んだ倉庫に顔を覗かせながら、呼びかける。
はやいところ、帰りたいのだが。
「クリサスくーん?」
まるでかくれんぼのようであると、半ば恨めし気に、半ば愛くるしくクリサスを探るうちに、一角の倉庫に行き当たった。
「クリサス──」
「来るな!!」
刹那。
倉庫は夥しい光の粒子に抱き竦められ、そして闇に吞み込まれ、そしてまた光、闇、光、闇……。
「は、なにこれ?!」
白黒に明滅する満目、なにが起きているのかを理解するよりもはやく、その音楽は止まった。音楽の聴こえていたクリサスには、少なくともそう感ぜられた。
瞬きひとつ、世界は相変わらず、何事もなく営まれる。夜は謐かだし、潮風は冷たい。
ただ一点を除いて。
「なんだったんだろうね、今の」
アズサは拍子抜けしたようにため息を零すと、倉庫の只中に立ちすくむクリサスに駆け寄った。
「さ、もう帰ろっ。クリサスくん。……クリサス?」
どくん、どくん。
「おいおいおい。……は?」
妙な感覚が全身を走った。
胸の奥。
心臓のさらに深い奥部。
いつもは鳴っているもう一つの鼓動が、一瞬だけ乱れた。
笑うしかなさそうだ。
だって仕方がないじゃないか。
──世界から、音楽が消えた。
あの心地よい旋律の消失とともに、まるですべてが幻のように喪失した。
鼓動だけが、やけにうるさい。こんなにも人間らしく、バカうるさい。
「アズサ。……まずいことになった」
「は?」
いつも感じていた感覚がない。
身体の内側をたっぷり充たしていた、あの圧倒的な力。
生まれた時からそこにあったもの。
自分そのものだったもの。
それが、
まったく、
綺麗に、
消えている。
右手をかざした。
左手を振り上げた。
手印を結んだ。
不断は呼吸みたいに漲る力。
それがない。
もう一回。また、もう一回。
とどのつまり、なにもない。
色の塗る前の塗り絵ではない。それならまだ塗り直す方法を知っている。
もともと色のついて生まれた写真。一瞬間にして色褪せた写真の色の戻し方なんて、知らない。
──どうしよう、膝が笑ってる。
「なんだよこれ……っ」
その時。
バンッ。
背後で音がした。
「クリサス!」
残党。弱そうな、痩せぎすの男。
震えた指で構えたおぼつかない銃口からは、白い硝煙。
振り返った時には、もう遅い。
遅すぎたのだ。
胸に衝撃。
気の抜けるような浮遊感。
膝から崩れ、抑えた手のひらが、はじめて自分の鮮血に染まる。
「クリサス!!」
アズサの荒らげた絶叫が遠くに聞こえる。
熱い、じゅくじゅくと煮えるように熱い。
痛い、痛い、痛い。これが、痛い。
銃弾が撃ち込まれ、受けた傷が焼けるように熱く、痛く、いつまでも続く。
なにもかも、はじめてだった。
はじめての”弱い”という感覚。
知らなかった、最強以外の力。
空っぽになった隙間に漬け込む、夜の気色がやけに冷たい。
眠る以外で、はじめて遠退く意識。
──これが、敗北?
アズサによってぐちゃぐちゃに殺される残党の男を横目に、クリサスは、人生ではじめて穏やかでないない眠りについた。
【クリサス】
秘密組織メイファーズの特務兵。
最強。
オリーブグレージュのツイストパーマで、黒いコートを羽織っている。
神格者。
【トコマダ アズサ】
秘密組織メイファーズの特務兵。
土星の環のようなキューティクルの黒髪ボブで、可愛らしい美貌を持つが、実は男。誰彼にも人懐っこい性格をしているが、クリサスをとりわけ慕っている。
普段はクリサスが全員倒すため、目立って活躍しないが、その実クリサスも認めるほどの実力があるらしい。
オバケが苦手。




