第三話 神の国王
ガルリア社──
世界機関により、あらゆる公式機関からの不干渉を保証された三つの組織のうちの一つ。
無法。それが赦された、正義のアントニム。
いわば、世界秩序のために絶対悪。
その自治領──ペリカー私国中央区画、旧下水路。
天蓋のように張り巡らされた錆びた配管の下、青い紋章を背に負った黒衣の影が五つ、音もなく走る。
「……再確認する」
じめじめと暗い下水路を、その先頭を走る女が、小声で言った。
黒髪を後ろで結った痩身の女。
他四人と同様に制服を着ていながら、その着こなしがすらりと美しい曲線を描いている。
メイファーズ特務兵第二部長──ミラ。
その胸の狭間には、銀色のペンダントが潜んでいる。
「目的はガルリア社の違法薬物トラッセンダの研究資料。接敵は避け、見つかれば即撤退。いいな」
「随分弱気だなァ」
後方で男が笑った。
大柄。広い額には夥しい古傷。巨大な斧を肩に担いでいる。
「クリサスがいねえからって、ビビってのか?」
「……だからだ」
ミラは振り返らない。代わりに胸のペンダントをぐっと握りしめた。
「クリサスがいない今、我々が、無茶をする意味はない」
「今、ね」
「……」
「じゃあ、これからは?」
永い沈黙。
「ちょっと意地悪な質問だったか」
「構わない。だが、とにかく今は今していることに集中しろ」
「ん。しっかし、本当に能力喪失とはな」
「信じがたい話ではある。……死んだ方が、まだ納得できる」
「縁起でもねえな」
男の湿った笑いが鳴る。それからミラ以外が、苦笑した。
たしかに笑うしかなかった。
──クリサス。
あまりにも自然にそこにいた戦力。呼吸みたいに当り前だった、最強。いつまでも、そこにあると誰もが心の隅で思っていた。
それが、ぽっかりと、ない。
その事実は、何事にも臆さないよう育てられてきた精鋭である者たちにさえ、薄ら寒い不安を深く宿した。
「到着」
ミラが足を止める。
一見、ただの壁。下水路の、ただの袋小路。しかし、妙な音。
「気を引き締めろ。ここが扉だ。……この先、ガルリア社地下研究区画」
五人の精鋭たちが首元のボタンを押すと、漆黒の特殊マスクがその顔を隠匿した。
「魔術による結界式を確認。解析します」
術式解析役の男が、掌をネズミ色の壁面に押し当てる。
「解除まで、三十秒」
「急げ」
と、次の瞬間。
「……は?」
音が消えた。下水路の水の流れる音も、隙間風も、すべて、無。
解析役の男の上半身が、斜めに滑り落ちて、──遅れて、血飛沫。
「っ──!?」
咄嗟に背の斧に手をかけ、──その手はすでに、自分の手許からなくなっていた。
刹那。
背負った斧の重さで、その身体はマネキンのように硬直したまま、下水路の汚い水に落ちていった。
「誰だ!?」
誰も理解できない。
斬撃? 魔術?
何も見えなかった。
「誰、って──こっちのセリフ」
その男は、どこからともなく姿を見せた。
白い軍服。胸には、世界機関の紋章。
下水路の只中で、一滴の汚水をさえ浴びていない。
若い。
整った顔立ちに、どこまでも退屈そうな目。
「ああ、いいよ。何も言わなくて。……メイファーズ、でしょ?」
にこり、と静かに微笑。眼だけは、どうしても笑っていない。
ミラは叫ぼうとする。撤退。その二字が、喉を出ない。
そう逡巡している間にも、気付けばもう、周りにはだれひとりいない。
「そうか貴様──っ、十帝会の──」
その先の言葉が、ミラの口から、この世界に響くことはなかった。
「アベリアさ。墓場に持ってきな。……いい男だった、ってな」
アベリアは短刀を腰に据えると、ミラの特殊マスクと、制服を実に事務的に剝ぎ取った。
「へえ、綺麗な面してんじゃん」
通信機器。目的はただそれだけ。
「お、ビンゴー。悪の栄えた例はないっての」
アベリアは地の汚水を吸って丸まった制服の紋章を踏みつけながら、気怠そうにそれを摘み上げた。
黒い宝玉? アクセサリーのような。
機械仕掛け。魔術ではないのか。
ザザザッ、と砂の打ち付けるような音。
──メイファーズ。この頃、辺りを嗅ぎまわる、正体不明の輩。
その正体を暴いてやらなければならない。
とりわけ、──その繋がりを。
「ひとまず、任務かんりょ──ん」
退屈そうな目に、一瞬、銀色の光が反射した。
ミラのはだけた胸元で光る、……ペンダント。
──ザッ、ザザザッ、ザザザザザザッッッ
『応答せよ、第二部隊。何があった!? 応答せよ!』
◇
「なるほど」
アイデスは静かに頷いた。
原初の地──エリス王国 ア・ランド・ルセルティ冥城
地下深部。
薄暗い独房の中、両手首に特殊な鎖に繋がれた囚人さながらの青年クリサスは、かつての最強の名の影も見えない。
対して、
独房の外に立つ──
白を基調とした外套は、聖職者の法衣にも、王族の礼装にも見えた。
幾重にも重なった薄布の裾には、金糸による精緻な刺繍が血脈のように這い、地下牢の小さな燭台の火を受けて鈍く煌めいている。
その内側には、夜を閉じ込めたような黒衣。
喉元まで隙なく留められた立襟と、身体の線に沿う細身の仕立てが、神秘性よりもむしろ禁欲的な冷酷を示し、肩から垂れる白銀の長髪は衣の白と溶け合い、どこまでがこの者でどこまでが装束なのか、判然としない。
その姿は、いわば世界そのものの憂鬱な美。
──アイデス・セディア。
この世界に唯一現存する、神。
その黄金の瞳が、クリサスを穏やかに見つめていた。
「つまり、完全に消えたわけだな」
「ああ」
クリサスは鎖を軽く引くと、ため息ひとつ、ぶっきらぼうに答えた。
「綺麗さっぱりな」
「神の心臓は?」
「ある。……あるだけだ。からっぽ、と云うのがふさわしい」
アイデスは沈黙した。永い沈黙。その沈黙が、 どこか重い。
「……アイデス?」
「いや」
神は微笑む。慈愛に満ちた、何者をも安心させてしまうような、完璧な微笑。
「少し考え事をしていただけだよ」
しかし、クリサスは相変わらず、眉をひそめた。
「なにか隠してんな」
「隠し事のない王などいるものか」
「開き直んなよ」
くくく、とアイデスは心から笑みを零した。
「さて、本題だ」
空気が変わる。
「クリサス。お前には軍学校へ入ってもらう」
「……は?」
「現在のお前は弱い」
「単刀直入だなオイ」
「事実だ。今のお前では、メイファーズ任務に耐えられん」
その言葉に、 クリサスは奥歯を噛んだ。
反論できない。
それが何より腹立たしい。
「エリス王国聖冠軍養成機関──レガリア学府」
アイデスは続ける。
「周知の通り、我が防衛軍や騎士団の幹部たちを多く輩出している名門中の名門。だが近年、ガルリア社の違法薬物トラッセンダが一部生徒の間で取引されているとの噂がある」
「潜入捜査か」
「副次的には、な。私はお前の能力喪失について、ガルリア社が絡んでいると考えている。表立って操作はできないからな、いい機会だろう」
「了解っ」
クリサスはにかッと笑うと、手首の鎖を引き、身体がまた引き戻された。
「だが忘れるな」
神は静かに告げた。
「学べ。潜入捜査より、わたしが期待するのはそちらの方だ」
「…………」
「お前は強すぎた」
アイデスの声は穏やかだった。
「故に、何も学ばなかった」
その言葉は、 妙に胸に刺さった。
「剣技体。戦術。敗北。努力」
アイデスは声を低くして笑う。
「今のお前には、すべて必要だ」
クリサスは黙る。
そして、わざとらしくため息を吐くと、
「……だりィ。学生とかガラじゃねえんだけど」
「安心しろ」
「?」
「お前は昔から馬鹿だからな。学校は、よく馴染む。……ま、名門なのが似気ないが」
「殺すぞジジイ」
その軽口に、 アイデスは愉快そうに目を細めた。
だが、ほんの一瞬。ほんの一瞬だけ、その瞳に、 昏い色が差した。
クリサスはその瞳は、たしかに見ていた──。
「……で、そろそろ、これ、外せよ」
クリサスは恨めし気に手首にまつわる鎖を引いた。
「いや」
アイデスは面白そうに微笑むと、
「こんなことは滅多にないからな。もうしばらくこうしておこう」
「やっぱ殺すッ!!」
【ミラ・サガン】
メイファーズ特務兵第二部長。
仕事中は長い黒髪を後ろで結い、スレンダー。
自分に厳しく、他者にも厳しい軍人気質で、部下からの信頼も厚い。
首には写真入りの銀色ペンダントをしている。
クリサスの──。
【アベリア】
十帝会のひとり。
退屈そうな目をしている青年。
【アイデス・セディア】
エリス王国の国王であり、世界に現存する唯一の神。
人間離れした美貌を持ち、長い白髪を靡かせている。
年齢は誰も知らない。本人でさえも。
〈世界機関 十帝会〉
世界を統治する機関。
トップに皇帝を据え、その下に十帝会という十人の精鋭がいる。




