第009話 地下炉と消えた魔石
北境城の地下へ降りる階段は、石でできていた。
足音が冷たく響く。壁には古い魔導灯が埋め込まれているが、光は弱い。王宮の灯りが人を飾るものだとすれば、ここにある灯りは、人が迷わないためだけに存在していた。
合理的で、少し寂しい。
わたしの前をカイ様が歩き、後ろにはイザベルさんと若い騎士が続く。騎士の名はトマ。昨日、ムギは鞄を食べないと証言した人物だ。
彼は今日、わたしの鞄から少し離れて歩いている。
信用回復には時間がかかる。
地下炉の扉は分厚い鉄でできていた。
表面にはルーヴェン家の紋章と、古い魔導式が刻まれている。百年以上前、北境全体を暖めるために造られた補助炉だという。
今は主暖房網の補助として、ときどき起動する程度らしい。
「入るぞ」
カイ様が扉を開けた瞬間、ぬるい風が顔に触れた。
寒い地下にしては、温かい。
だが、温かさの流れ方が不自然だった。
地下炉の中央には、大きな円筒形の魔導装置がある。外側は黒い鉄、内側には青白い魔力の線。周囲には配管が枝のように伸び、城内の暖房網へつながっている。
それだけなら、古いが立派な設備だ。
問題は、その中央に浮かぶ赤い数字だった。
入力魔力、過多。
出力魔力、不足。
損失率、七十一パーセント。
流出先、外部。
「これは……」
わたしは思わず近づいた。
「危険か」
カイ様が尋ねる。
「すぐ爆発するような危険ではありません。ただ、炉の中に入っている魔力が、暖房として使われずに外へ逃げています」
「魔石二百個分か」
「それ以上です」
イザベルさんが息を呑む。
「それ以上?」
「帳簿上の魔石二百個は、入り口にすぎません。ここは、北境全体から集めた余剰魔力を一度受ける場所です。その一部が、毎日少しずつ抜かれています」
「どこへ」
カイ様の声が低くなる。
わたしは炉の横にしゃがみ込み、配管の根元に手をかざした。
赤い線は、王都の方角へ伸びている。
途中で何度も薄くなり、再び濃くなる。契約を何枚も経由して、流れを隠しているのだ。
「王都です。おそらく、王宮南庭。そして聖女リリアナ慈善基金の名義を経由しています」
「基金が北境の魔力を吸っているのか」
「名義上は、慈善基金が北境へ支援しています。実際には、支援の名目で契約を書き換え、余剰魔力を王都へ戻している。そう見えます」
「余剰ではない」
カイ様は言った。
「ここでは、一度でも冬が荒れれば足りなくなる」
「はい」
その数字は、わたしにも見えている。
今は何とか回っている。
けれど寒波が来れば、余裕などない。
「まず、外部流出を止めます」
「できるのか」
「できます。ただし、契約上の流れを止めるだけでは、王宮側が違約だと主張する可能性があります」
「ならば?」
「安全上の緊急措置として、一時遮断します。理由は、地下炉の損失率が危険域に入ったため」
「本当に危険域か」
「このままだと二十六日後に暖房網が止まります」
「十分だ」
カイ様は即断した。
「遮断しろ。責任は私が負う」
「書面でください」
イザベルさんが、用意していた板紙を差し出した。
早い。
北境の人たちは、必要な書類の出現が早い。
わたしは感心しながら、緊急遮断命令の文案を書いた。
魔導暖房網保全のため。
住民の生命維持を優先するため。
外部流出契約を一時停止するため。
責任者、北境辺境伯カイ・ルーヴェン。
技術判断、雇用監査人エリス・クラウゼル。
「わたしの名も入れます」
「君に責任を負わせるためではない」
「判断した者の名前がない記録は弱いです」
カイ様はわたしを見た。
「怖くないのか」
「怖いです」
これは即答できた。
「ですが、名前のない仕事は、あとで誰かに押しつけられます」
前世でも、王宮でも、そうだった。
誰も名前を書かない仕事は、最後に一番弱い人の机へ落ちる。
だから、書く。
わたしが見た。
わたしが判断した。
わたしが止める。
カイ様は黙って、命令書に署名した。
わたしは地下炉の制御盤を開いた。
古い魔導式が複雑に絡んでいる。王宮の新式設備と違い、ここは長く使われ、何度も直されてきた痕跡がある。
壊れたから捨てるのではなく、壊れたところを直し、合わないところを調整し、必要なら新しい部品を足してきた。
人が暮らすための設備だ。
「第三外部導管を閉じます」
「それが王都への線か」
「はい。ただし、完全に閉じると逆流します。先に逃がし弁を開けます」
手順を口に出しながら、銅針を差し込む。
前世でよく言われた。
独り言が多い、と。
けれど作業手順を声に出すと、間違いが減る。誰かが横で聞いていれば、さらに減る。
「逃がし弁、開放」
イザベルさんが記録する。
「第三外部導管、半閉鎖」
トマが息を呑む。
炉の奥で、低い音がした。
青白い線が一瞬だけ揺れ、外へ逃げていた赤線が細くなる。
「次、内部循環へ戻します」
制御輪を回す。
固い。
「カイ様、少し力を貸してください。わたしが合図するまで、ゆっくり」
「分かった」
二人で制御輪を回す。
金属がきしむ。
炉の音が変わる。
赤い流出線がさらに薄くなり、暖房網へ向かう青い流れが太くなっていく。
損失率、七十一。
六十三。
四十八。
三十二。
「止めてください」
カイ様が手を離す。
わたしは最後の固定具を締めた。
地下炉の中心で、青い光がゆっくり安定する。
出力魔力、回復。
城内暖房網、安定。
北境停止予測、二十六日後から、六十八日後へ。
まだ安心はできない。
けれど、時間を買えた。
「どうだ」
「ひとまず、六十八日」
「十分ではないが、ありがたい」
カイ様は深く息を吐いた。
イザベルさんも、記録板を胸に抱えている。
トマは小さく拳を握った。
「城が暖かくなるんですか」
「少しずつ」
わたしが答えると、彼は子どものように笑った。
その笑顔を見て、ようやく自分の手が震えていることに気づいた。
寒さではない。
緊張が解けたせいだ。
カイ様が静かに外套を差し出した。
「戻ろう。君は休む時間だ」
「まだ西塔の記録が」
「休む時間だ」
同じ言葉を、少しだけ強く繰り返された。
命令ではなく、確認のような声だった。
わたしは契約書を思い出した。
夜間作業後の休息。
守らなければ、誰かがそれを当然にする。
「承知しました」
地下炉を出る前に、わたしはもう一度炉を振り返った。
青い光が、少しだけ強くなっている。
その向こうで、赤い線はまだ王都へ続いていた。
完全には切れていない。
この線の先に、誰かがいる。
聖女なのか、王宮なのか、あるいはもっと別の誰かなのか。
明日から、その宛名を探す。
請求書に名前を書くために。




