第010話 辺境伯の台所革命
翌朝、わたしは寝坊した。
正確には、契約上認められた午前休を取得していたので、寝坊ではない。
それでも目が覚めた瞬間、心臓が嫌な跳ね方をした。
前世の記憶だ。
寝過ごした。
遅刻する。
上司に怒られる。
締め切りが壊れる。
体が先に慌て、頭があとから追いつく。
ここは北境城。
今日は夜間作業の代休。
起きてすぐ働かなくても、世界は終わらない。
そう言い聞かせて、深呼吸した。
昼前に食堂へ行くと、厨房の前で小さな騒ぎが起きていた。
料理長らしき大柄な女性が、山のような根菜を前に腕を組んでいる。イザベルさんが帳簿を持ち、カイ様が真剣な顔で立っていた。
辺境伯が厨房で真剣な顔をしている。
王宮なら異常事態だ。
北境では、たぶん日常の範囲なのだろう。
「何か問題ですか」
わたしが尋ねると、料理長が振り向いた。
「お嬢さんが噂の監査人かい。問題は山ほどあるよ。玉ねぎが多すぎる」
「多すぎる玉ねぎ」
「倉庫に五樽。昨日また三樽届いた。注文したのは二樽だ」
イザベルさんが帳簿を見せてくれた。
確かに、注文二樽、納品三樽、在庫五樽。
合計すると、冬の城には多すぎる。
「支払いは」
「三樽分請求されています」
「二樽の注文で三樽分」
「業者は、王宮補助分の指定納入だと」
また王宮。
わたしは倉庫へ案内してもらった。
そこには、玉ねぎだけでなく、妙に偏った在庫が積まれていた。
玉ねぎ。
干し豆。
香草。
高級砂糖。
王都産の薄い菓子紙。
一方で、必要なものが少ない。
包帯。
獣脂。
厚手の手袋。
暖炉部品。
「カイ様、これは食料調達ではありません」
「では何だ」
「王宮の余剰在庫処分です」
料理長が鼻を鳴らした。
「やっぱりね。王都の連中は、北境の兵士が砂糖紙を食べると思ってるのかい」
「食べませんか」
「食べないよ。腹も暖まらない」
正しい。
わたしは在庫表を作り直し始めた。
食料在庫を、見た目の品目ではなく用途で分類する。
主食。
保存食。
温食材。
医療転用可能品。
嗜好品。
不要品。
砂糖紙は嗜好品ではなく、不要品に近い。
「全部売却しましょう」
わたしが言うと、料理長の顔が明るくなった。
「やっと話の分かる人が来た」
「ただし、すぐに叩き売ると損です。王都では建国祭後で菓子紙の需要が落ちています。近隣の修道院で保存菓子を作るなら、交換条件に包帯と薬草を出してもらえるかもしれません」
イザベルさんがすぐ書き取る。
「玉ねぎはどうしますか」
「兵士の食事に使い切れます。ただし、同じ料理ばかりだと士気が落ちます」
料理長が腕まくりした。
「そこは任せな。焼く、煮る、潰す、干す、詰める。玉ねぎと喧嘩して勝てない料理人はいないよ」
強い言葉だ。
カイ様が少し安心した顔をした。
「では、調達契約の見直しを」
「はい。王宮指定納入は一度停止し、北境内の業者と直接契約を増やします」
「地元優先か」
「輸送費が減ります。納期も短くなります。何より、北境で稼いだ金が北境内に残ります」
イザベルさんが顔を上げた。
「それは……税収にも戻りますね」
「はい」
「今まで王都から買う方が格式があると言われていました」
「格式は食べられません」
料理長が大声で笑った。
「気に入ったよ、監査人のお嬢さん。昼は玉ねぎのスープを大盛りにしてやる」
「ありがとうございます。大盛りは適量でお願いします」
「大盛りの適量とは何だい」
難しい問いだった。
昼食後、わたしはカイ様と調達会議を開いた。
現場責任者、会計責任者、厨房、医療室、兵站担当が集まる。最初は皆、王宮育ちの令嬢が何を言うのかという顔だった。
わたしは、最初に帳簿の不備を責めなかった。
責めても在庫は増えない。
代わりに、現場の困りごとを書き出してもらった。
包帯が足りない。
靴底の修理が遅い。
暖炉部品が届かない。
香草だけ余る。
夜勤明けの兵士が食堂に間に合わない。
医療室の湯がぬるい。
最後の項目に、わたしは赤丸を付けた。
「湯がぬるいのは、暖房網の枝管が細工されている可能性があります」
医療責任者が身を乗り出した。
「負傷者の洗浄に困っていました」
「優先度を上げます」
「ですが、兵舎も寒いと聞きます」
「だから優先順位表を作ります。命、治療、睡眠、食事、士気、見栄。この順です」
会議室が静かになった。
カイ様が低く言う。
「見栄は最後か」
「最後です。必要な見栄もありますが、暖炉より上には置けません」
「王宮に聞かせたいな」
「聞いてもらうための資料を作ります」
その日の午後、北境城の調達表は大きく変わった。
王宮指定の不要品を止める。
地元業者と直接契約する。
余剰在庫を交換に回す。
医療室の湯を最優先で直す。
兵士の夜勤食を用意する。
どれも小さな変更だ。
けれど、小さな変更が積み重なれば、人は働きやすくなる。
夕方、料理長が試作品を持ってきた。
玉ねぎのスープ、玉ねぎの焼き物、玉ねぎ入り肉詰め、玉ねぎの甘煮。
「全部玉ねぎですね」
「台所革命ってのは、余りものとの戦争だよ」
カイ様が甘煮を食べて、少し目を見開いた。
「うまい」
料理長は得意げに笑った。
わたしも一口食べた。
甘い。
温かい。
北境の冬に、よく合う味だった。
その夜、城内の医療室に温かい湯が戻った。
地下炉の調整と、余剰配管の切り替えを行った結果だ。
医療責任者から礼を言われたとき、わたしは請求書を書こうとして手を止めた。
これは雇用契約内の業務だ。
別請求ではない。
少し残念そうにしていたら、イザベルさんに笑われた。
「エリス様は、請求書がお好きなのですね」
「好きというより、未払いが嫌いです」
「北境では、その違いを覚えておきます」
窓の外では、雪が降り続いていた。
だが城の中は、昨日より少しだけ暖かい。
数字が変わると、空気が変わる。
それを実感できる場所に、わたしは来たのだと思った。




