第008話 ルーヴェン城の黒字寝台
北境の城は、王宮ほど大きくない。
尖塔も少なく、壁は厚く、窓は小さい。美しさよりも、雪と風を防ぐことを優先して造られている。
ルーヴェン城。
王国北部を守る辺境伯家の本拠地だ。
到着したのは、二日目の夕方だった。
灰色の空から細かな雪が降り、城壁の上では兵士たちが外套の襟を立てている。門の前に立つと、冷たい風の中に、炉の煙と焼いた玉ねぎの匂いが混じっていた。
王宮の香りではない。
働く場所の匂いだった。
「ようこそ、北境へ」
カイ様が言った。
「歓迎したいが、まずは休ませるべきだな」
「賛成です」
「即答だな」
「契約通りですので」
城の中へ入ると、使用人たちが並んでいた。
彼らの視線は、好奇心と警戒が半分ずつ。王宮で婚約破棄された伯爵令嬢が、辺境伯に連れられてやってきた。噂としては、かなり扱いに困るだろう。
その中から、黒髪をきっちりまとめた女性が進み出た。
「城代補佐のイザベルと申します。滞在中のお世話を担当いたします」
「エリス・クラウゼルです。雇用契約に基づき、魔導暖房網の監査を担当します」
イザベルさんは一瞬だけ目を見開いた。
たぶん、挨拶で雇用契約を出す令嬢は珍しい。
だが、彼女はすぐに表情を整えた。
「お部屋へご案内します」
部屋は、思ったより広かった。
厚い絨毯。
小さな机。
本棚。
暖炉。
そして、ふかふかそうな寝台。
わたしは寝台を見た。
《帳簿視》を使う。
寝具清潔度、良好。
耐久年数、十分。
睡眠期待値、高。
「黒字です」
思わず呟いた。
イザベルさんが首を傾げる。
「黒字、ですか」
「失礼しました。とても良い部屋です」
「辺境伯様より、特に寝具を整えるよう指示がありました」
「……そうですか」
契約に書いたからだろう。
勤務環境の整備。
それを本当に実行する人なのだと、また少し驚いた。
イザベルさんは荷物を置き、部屋の設備を説明してくれた。暖炉の使い方、呼び鈴、食堂の時間、湯浴みの場所。
説明が簡潔で、分かりやすい。
「何か不足があればお申し付けください」
「ありがとうございます。では、ひとつだけ」
「はい」
「城内の備品台帳を見せていただけますか」
イザベルさんの表情が固まった。
「今、ですか」
「いえ、夕食後で構いません」
「休まれるのでは」
「休みます。ただ、この暖炉の魔石消費が部屋の広さに対して少し多いので、城内の供給系統を確認した方がよいかと」
イザベルさんは暖炉を見た。
「暖かいように見えますが」
「暖かいです。ですが、少し漏れています」
「漏れている……」
彼女の顔色が変わった。
北境の人間にとって、暖房の異常は冗談ではないのだろう。
「すぐに用意します」
「夕食後で」
「しかし」
「わたしの雇用契約に、食事を抜かせない条項があります」
イザベルさんは、初めて少し笑った。
「辺境伯様らしくない条項ですね」
「わたしが入れました」
「納得しました」
夕食は、王宮のように皿が何枚も並ぶものではなかった。
大きな食堂で、兵士や職員と同じ時間に食べる。豆と根菜の煮込み、焼いた羊肉、黒パン、温かい乳酒。
カイ様は上座にいたが、偉そうに食べているわけではない。途中で兵士が報告に来れば聞き、厨房係が声をかければ返す。
食堂の空気はざわざわしていた。
静かすぎる王宮より、ずっと人間の場所だった。
「口に合うか」
カイ様が尋ねる。
「おいしいです」
「王宮ほど豪華ではないが」
「温かく、必要量があり、食べる人が気まずくありません。食事として優秀です」
近くの兵士が吹き出した。
カイ様も少し笑った。
「料理長に伝えておく」
食後、備品台帳が運ばれてきた。
大きな革表紙の帳簿が三冊。
イザベルさんは緊張した顔で言った。
「不備があるかもしれません」
「不備がない帳簿の方が珍しいです」
「慰めでしょうか」
「経験則です」
帳簿を開く。
最初の数ページを読んだだけで、視界の端に赤い数字が浮いた。
厨房の薪、過剰在庫。
医療室の包帯、在庫不足。
兵舎の暖炉部品、未記入。
西塔の魔石、帳簿上は残あり、実在なし。
「西塔の魔石は、どなたが管理していますか」
イザベルさんが眉を寄せる。
「西塔は、古い資料室です。最近はほとんど使っておりません」
「帳簿上は、そこに魔石が二百個あります」
「二百?」
カイ様の声が低くなった。
「そんな在庫は聞いていない」
「実在はしていません。帳簿だけに残っています」
わたしはページをめくった。
古い記録の間に、不自然な筆跡が混じっている。
王宮から派遣された点検官の署名。
北境暖房改善計画。
西塔保管分。
管理者、王宮慈善局技師長代理。
また王宮慈善局。
イザベルさんが青ざめた。
「西塔を確認します」
「今夜ですか」
「魔石二百個分です」
彼女の声は固い。
わたしは契約書を思い出した。
夜間作業は翌日の午前休。
「確認だけなら、今夜でも可能です。ただし、作業は三十分以内。詳細調査は明朝にします」
「君は本当に、自分の勤務時間を守るな」
カイ様が言った。
「守らないと、誰かがそれを当然にします」
「その通りだ」
西塔へ向かう廊下は寒かった。
使われていない区画だけあって、空気が乾いている。壁に掛けられた古い肖像画が、薄暗い灯りの中でこちらを見ていた。
西塔の資料室を開けると、埃の匂いがした。
棚には古い地図や戦時記録が並んでいる。
魔石の箱はない。
代わりに、床の隅に新しい擦り傷があった。
そこから、細い赤線が地下へ伸びている。
「魔石はここにありません」
わたしは言った。
「ですが、ここを経由してどこかへ流れています」
カイ様が床に膝をつき、傷を見た。
「地下には、古い暖房網の心臓部がある」
「心臓部?」
「北境城の地下炉だ。今は補助設備としてしか使っていない」
赤線は、まさにそこへ向かっていた。
わたしは胸の内で、明日の作業予定を書き換えた。
朝食。
地下炉確認。
責任者選定。
西塔帳簿調査。
昼食。
昼食は削らない。
そこだけは、絶対に守る。




