第006話 北境行きの馬車は定時に出ます
翌朝、わたしは鳥の声ではなく、マルタさんの声で起きた。
「エリス、朝食だよ。寝台を抱きしめてないで降りてきな」
寝台を抱きしめていた覚えはない。
ただ、硬い寝台でも一度も呼び出されずに眠れたことが嬉しくて、起き上がるのに少し時間がかかった。
階下へ降りると、店の奥に小さな食卓が用意されていた。
黒パン。
豆のスープ。
焼いた干し肉。
湯気の立つ薬草茶。
王宮の朝食に比べれば質素だ。
けれど、誰かの機嫌を伺いながら食べなくていい。
その価値は、かなり高い。
「おはようございます」
「顔色は悪いけど、倒れそうではないね」
「睡眠の効果は偉大です」
「よく覚えておきな」
マルタさんはそう言って、わたしの前にスープを置いた。
カイ様はすでに店の外で待っていた。
黒い外套を身に着け、馬車の横で部下に指示を出している。荷物は少なく、護衛も必要最低限。王族の行列とはまるで違う。
ただ、馬車の前に立つ馬があまりに大きかった。
「これは馬ですか」
わたしが尋ねると、カイ様の隣にいた若い騎士が胸を張った。
「北境馬です。名はムギ。雪道を走り、荷も引き、狼が来ると蹴ります」
「多機能ですね」
「ええ。気性は少々荒いですが、賢い馬です」
そのムギは、わたしの鞄を見て鼻を鳴らした。
赤い数字が浮かぶ。
好物、干し林檎。
危険度、低。
荷物への関心、高。
「この馬、鞄を食べませんか」
「食べません。たぶん」
若い騎士が目を逸らした。
たぶんは契約書に書けない言葉だ。
わたしは鞄をしっかり抱え直した。
出発前、カイ様が昨日修正した雇用契約書の写しを渡してくれた。
休息条項、食事条項、責任者条項、夜間作業時の代休条項。すべて反映されている。
さらに、余白に一文が追加されていた。
被雇用者の安全確保は雇用主の責任とする。
わたしはその文字を見て、しばらく黙った。
「問題があるか」
「いいえ」
「なら、なぜそんな顔をする」
「慣れていないので」
「安全を確保されることに?」
「はい」
カイ様は、何か言いかけてやめた。
代わりに、馬車の扉を開ける。
「北境までは二日だ。途中で一泊する。道中で見えるものがあれば、教えてほしい」
「承知しました」
「ただし、疲れたら言え」
「契約上もそうします」
「契約上でなくても、そうしてくれ」
その言い方があまりに普通だったので、わたしは少しだけ返事に遅れた。
「……努力します」
「そこは即答してほしかった」
馬車が動き出す。
王都北区の石畳を抜け、中央大通りを遠巻きにし、北門へ向かう。王宮の尖塔は、朝日に照らされて美しく見えた。
遠目には、まだ立派な宮殿だ。
けれどわたしの目には、屋根の上に薄い赤字が見える。
破綻予測、九十一日後。
昨日より一日減っただけではない。
警告の色が濃くなっていた。
カイ様がわたしの視線を追う。
「王宮が気になるか」
「気にならないと言えば嘘になります」
「戻りたいか」
「いいえ」
そこは、はっきり答えられた。
「ただ、王宮が壊れると困る人は多いです。働いている侍女、出入り業者、医療院、孤児院、防衛線。王太子殿下が困るだけなら構いませんが」
カイ様が小さく咳をした。
「最後の一文は記録に残さない方がいい」
「口頭ですので」
「それでもだ」
馬車の中で、わたしは北境の資料を広げた。
暖房網の配置図。
魔石の納入記録。
王宮からの補助金通知。
兵站費の削減表。
読めば読むほど、胸が重くなる。
北境は王国の盾だ。
雪深い山脈の向こうには、冬になると氷狼や雪喰い獣が降りてくる。防衛線を維持するには、人と食料と暖房が必要になる。
その暖房費を、王宮は「過剰」と見なして削っていた。
「カイ様」
「なんだ」
「北境の暖房網が止まれば、何人が影響を受けますか」
「城下だけで二万人。周辺村を含めれば六万人近い」
「停止予測は二十七日後です」
馬車の中が静かになった。
護衛の騎士が息を呑む。
カイ様の表情は変わらなかった。ただ、膝の上に置いた手が少し強く握られた。
「本当に見えるのか」
「はい」
「原因は」
「複数あります。老朽化もありますが、それだけではありません。魔力供給経路の一部が別用途へ流れています」
「王宮南庭か」
「おそらく」
「花のために、北境が凍るのか」
その言葉に、わたしはすぐ答えられなかった。
花そのものが悪いわけではない。
人の心を癒やす庭も、きっと意味はある。
けれど、暖炉の前で震える子どもたちを見たあとでは、優先順位を間違えているとしか言えなかった。
「すべて確認します」
わたしは資料に印を付けた。
「そのうえで、必要なものと不要なものを分けます」
「王都の貴族は、それを嫌う」
「嫌うでしょうね」
「なぜ平気そうに言う」
「前世の上司も嫌いました」
カイ様がまた少しだけ笑った。
馬車の窓から、王都北門が見えてきた。
門の外には、雪をかぶった道が続いている。
北境へ。
わたしを地味だと笑った王宮から離れ、数字が命に直結する場所へ向かう。
馬車が門をくぐった瞬間、ムギが鼻を鳴らした。
わたしの鞄から、干し林檎の包みがひとつ消えていた。
「騎士様」
「はい」
「馬が、鞄を食べないという報告は虚偽でした」
若い騎士は青ざめた。
カイ様は窓の外を見たまま、肩を震わせていた。




