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第005話 王宮の暗い朝

王宮の朝は、いつもなら香油の匂いで始まる。


磨かれた廊下。

銀の盆に載った温茶。

温室で摘まれた花。

王太子宮の窓辺には、季節に関係なく薔薇が飾られる。


その朝、薔薇はなかった。


温茶もぬるかった。


廊下の魔導灯は半分しか点かず、侍女たちは手燭を持って走り回っていた。


「どういうことだ!」


王太子レオンハルトは、私室の扉を開けたまま怒鳴った。


寝不足で目の下が暗い。昨夜の婚約破棄は、彼にとって勝利の夜になるはずだった。


真実の愛を選ぶ勇気ある王太子。


冷たい婚約者から解放された若き王位継承者。


そのはずが、祝宴は途中で暗くなり、貴族たちは気まずそうに帰り、朝になっても王宮の一部は薄暗いままだった。


「財務官を呼べ!」


しばらくして現れた財務官カーターは、顔色が悪かった。


彼は王宮で数少ない、数字を最後まで読む人間だ。


だからこそ、昨夜エリスが渡した請求書の意味を誰より早く理解していた。


「殿下」


「説明しろ。なぜ灯りが戻らない」


「契約の多くが、クラウゼル伯爵家の信用枠で補填されておりました」


「信用枠?」


「王宮の支払いが遅れた際、業者が納入を止めないよう、エリス様が保証人として調整されていたものです」


「そんな話は聞いていない」


「殿下が財務会議にご出席されなかったためです」


カーターは言ってから、少しだけ唇を引き結んだ。


言いすぎた。


しかし、事実だった。


レオンハルトは机を叩いた。


「王宮には予算があるだろう!」


「あります。ですが、建国祭、神殿寄付、南庭の改修、聖女様の慈善事業、国外使節団の饗応費により、流動資金が不足しております」


「不足なら、どこかから移せ」


「エリス様がいた頃は、そうしていました」


部屋が静かになった。


リリアナが不安そうにレオンハルトの袖を握る。


「レオン様、私の花壇は大丈夫ですか。子どもたちに癒やしの花を届けるための、大切な場所なのです」


カーターの表情がさらに曇った。


「南庭の花壇は、現在停止しております」


「停止?」


「水晶肥料と温室魔力の供給が止まりました。業者から、未払い分を清算するまで再開できないと」


リリアナの顔が白くなる。


「でも、あれは慈善基金から……」


「慈善基金の収支についても、確認が必要です」


カーターは書類を一枚差し出した。


昨夜、エリスが残していった写しの一部だった。


聖女リリアナ慈善基金。

北区孤児院暖房支援。

魔力供給契約変更。

不明支出、金貨八千七百枚。


リリアナはその数字を見ても、意味が分からない様子だった。


「これは何ですか」


「私にも、まだ全容は分かりません」


カーターは正直に答えた。


「ただ、エリス様がこの数字を見逃すとは思えません」


レオンハルトは苛立ちを隠さなかった。


「エリス、エリス、エリス。朝からその名ばかりだな」


「殿下」


「彼女がいなければ王宮が回らないとでも?」


「回ります」


カーターは言った。


「ただし、実態に合わせた規模で」


それは、豪華な夜会も、無駄な温室も、見栄のための魔導灯も、今まで通りには維持できないという意味だった。


レオンハルトは答えなかった。


答えたくなかったのだろう。


そのとき、侍従が慌てて部屋に入ってきた。


「殿下、北区孤児院より抗議文が届いております。昨夜、暖房魔導具に細工が見つかったと」


リリアナが息を呑んだ。


「細工……?」


「さらに、北境辺境伯カイ・ルーヴェン様より、王宮慈善局に対する契約資料の開示要求が来ております」


「カイが?」


レオンハルトの顔が険しくなった。


北境辺境伯家は、王家に忠実だが扱いにくい。


王都の貴族たちのように飾り言葉を好まず、必要なときは必要なことだけを突きつける。特に辺境の防衛費を削られた件では、何度も王宮と衝突していた。


「なぜカイが孤児院などに口を出す」


「匿名で支援されていたそうです」


侍従は続けた。


「そして、エリス様が昨夜、孤児院の暖炉を修理されたとのことです」


レオンハルトの眉が跳ねた。


「エリスが?」


「はい。リーヴェ魔導具修理店のマルタ氏とともに」


リリアナが小さく呟いた。


「エリス様は、王宮を出てすぐに……」


彼女の声には、責めるような響きはなかった。


むしろ、困惑に近かった。


自分が愛を語っていた間に、エリスは凍える子どもの部屋へ向かっていた。


その事実は、誰の胸にも少しずつ重かった。


レオンハルトは視線を逸らした。


「彼女を呼び戻せ」


カーターが顔を上げる。


「殿下」


「説明をさせる。王宮の契約を勝手に停止した責任を問う」


「呼び戻すには、まず婚約破棄の撤回か、正式な業務依頼が必要です」


「なぜだ!」


「もう、殿下の婚約者ではありませんので」


カーターの言葉は静かだった。


だが、薄暗い部屋に重く落ちた。


レオンハルトは言い返せなかった。


その頃、王宮南庭の温室では、季節外れの薔薇が一輪ずつしおれ始めていた。


そして庭師の足元では、王宮の床下へ伸びる魔力管が、赤い光を失いかけていた。

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