第004話 辺境伯との雇用契約
請求書を書くには、まず相手を決めなければならない。
これは経理の基本だ。
金額よりも、勘定科目よりも、紙の質よりも先に、誰が責任を負うのかを決める。そこを曖昧にした請求書は、やがて誰かの机の端で眠り、最後には「誰も知らない支出」になる。
前世で何度も見た光景だった。
だからわたしは、孤児院の事務室で古い契約書を広げながら、まず宛名欄を空白のままにした。
「孤児院ではありませんね」
王宮慈善局発行の契約書には、きれいな飾り文字でこう書かれていた。
北区孤児院暖房支援事業。
聖女リリアナ慈善基金より魔力供給費を一部補助。
不足分は孤児院の努力により節約すること。
最後の一文に、わたしはしばらく視線を落とした。
努力。
便利な言葉だ。
足りない金を努力で埋めろと言う人間は、だいたい自分の財布を開けない。
「この契約は無効にできますか」
院長先生が不安そうに尋ねる。
「条項の一部は争えます。ただ、今ここで破棄すると暖房の供給そのものが止まる可能性があります」
「では……」
「まずは仮払いの出所を変えます。辺境伯閣下」
わたしが呼ぶと、カイ様は腕を組んだまま頷いた。
「必要額は?」
「今夜の応急処置、今後三十日分の最低暖房、契約調査費、技師の再点検費を含めて金貨二十八枚。余剰が出た場合は孤児院の食料費へ振り替えます」
「少ないな」
「王宮式に請求すれば金貨百二十枚です」
「では金貨百二十枚払おう」
「払わないでください」
カイ様が意外そうに瞬きした。
「なぜだ」
「過払いは癖になります。慈善でも、契約でも、仕事でも」
マルタさんが事務室の隅で笑った。
「この子は面倒だよ、辺境伯様。善意にも請求書を付ける」
「善意を長持ちさせるには、管理が必要です」
わたしはそう答え、契約書の余白に赤で印を付けた。
魔力供給元の変更履歴。
点検業者の署名。
不自然な追加条項。
どれも、表面だけなら正しい。
けれど数字の流れは、王宮南庭へ向かっていた。
「聖女リリアナ慈善基金は、実際に孤児院へ支援しています」
わたしは言った。
「ただし、途中で抜かれています。基金そのものが悪いのか、管理している誰かが悪いのかは、まだ判断できません」
「王宮に戻れば調べられるのか」
カイ様の声は静かだった。
「戻りません」
即答すると、マルタさんがまた笑った。
「いい返事だ」
「王宮の帳簿は、わたしがいなくても存在します。正規の手続きで写しを請求します」
「応じなければ?」
「応じない理由を記録します。記録は、とてもよくしゃべります」
カイ様は少しだけ口元を緩めた。
「では、北境の暖房網も頼みたい。正式な雇用契約を結ぼう」
彼は懐から革の書類入れを出した。
用意が早い。
わたしは差し出された契約書を受け取り、すぐに読み始めた。
雇用主、北境辺境伯カイ・ルーヴェン。
業務内容、北境魔導暖房網の点検、帳簿監査、契約改善提案。
期間、三十日。ただし双方合意により延長可。
報酬、日当金貨二枚、宿食つき。
休息、七日に一日。
「休息が少ないです」
「北境ではそれが普通だ」
「普通は改善できます」
カイ様は真顔で契約書を見た。
「では、どうする」
「六日に一日休み。緊急対応時は代休。夜間作業は翌日の午前休。食事は一日三回。移動中の仮眠を労働時間から除外しない」
「移動中の仮眠も労働時間なのか」
「職務命令による移動中ですので」
「なるほど」
カイ様はペンを取り、迷わず修正を書き入れた。
その手元を見て、わたしは少し驚いた。
王宮では、契約の修正はたいてい嫌がられた。特に、働く側を守る条項は「細かい」「面倒だ」「信用していないのか」と言われた。
けれどカイ様は、確認して、理由を聞き、必要だと思えば直す。
それだけのことが、珍しかった。
「ほかには?」
「責任者を明確にしてください」
「私だ」
「即答しないでください。現場責任者、会計責任者、魔導技術責任者が必要です。全て閣下お一人ですと、倒れたときに組織が止まります」
「私が倒れた場合まで考えるのか」
「組織は、元気な責任者だけを前提にしてはいけません」
カイ様は黙った。
その沈黙は、不快ではなかった。
怒らせたかと思ったが、彼はただ考えていた。
「分かった。明日、北境城で責任者を立てる。君にも選定に同席してほしい」
「承知しました」
わたしは契約書の最後に署名した。
エリス・クラウゼル。
婚約者ではない。
王太子妃候補でもない。
ただの雇われ監査人としての名前だ。
カイ様が署名し、マルタさんが証人になった。
これで契約は成立した。
「では、出発は二時間後だ」
「却下します」
カイ様の手が止まった。
「なぜだ」
「契約締結直後に、雇用主が睡眠を奪うのは悪手です。わたしは婚約破棄、孤児院修理、契約確認を終えた直後です。今出発すると、馬車内で倒れる可能性があります」
「……確かに」
「出発は明朝。夜明け後。朝食後。移動計画はその場で確認します」
カイ様は、なぜか少し楽しそうだった。
「君は本当に、容赦なく現実を言うな」
「現実は、言わなくても発生します」
「では、明朝にしよう」
その言葉を聞いた瞬間、体から力が抜けた。
眠れる。
それだけで、少し世界がよく見える。
マルタさんが二階の部屋へ案内してくれた。
狭い部屋だった。寝台は硬く、壁紙は剥がれかけ、窓の隙間から冷たい風が入っている。
けれど、扉には鍵があり、毛布は乾いていた。
王宮の客室より豪華ではない。
でも、誰にも呼び出されない部屋だった。
わたしは靴を脱ぎ、寝台に腰かけた。
その瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、静かにこぼれた。
泣くつもりはなかった。
けれど涙は、請求書と違って承認印を待ってくれない。
五年間。
わたしは、役に立とうとしてきた。
それを地味だと言われ、冷たいと言われ、いらないと言われた。
それでも今夜、誰かが「当然だ」と言ってくれた。
寒い部屋が暖かくなった。
小さな仕事が、きちんと契約になった。
わたしは毛布をかぶり、目を閉じた。
明日から北境。
王宮の赤字ではなく、凍える土地の数字を見る。
眠りに落ちる直前、階下からマルタさんの声が聞こえた。
「辺境伯様、朝食はうちで出すよ。請求書はそこの机だ」
「分かった」
「ついでに、あの子の寝台を新しいのに替えな」
「それも請求書か」
「もちろん」
わたしは少しだけ笑って、そのまま眠った。




