第003話 壊れた暖炉と第一号の請求書
北区孤児院の子ども部屋は、暖炉の前でさえ息が白かった。
毛布にくるまった子どもたちが、互いに身を寄せ合っている。奥の小さな寝台では、赤ん坊が弱々しく泣いていた。
院長先生は、白髪交じりの髪を乱したまま頭を下げた。
「申し訳ありません。こんな夜更けに……」
「謝るのは、払うべき人が払っていない場合だけです」
院長先生が驚いたように顔を上げる。
「こちらに非があるかどうかは、確認してから決めましょう。先に暖炉を見ます」
わたしは暖炉の前に膝をついた。
《帳簿視》を使うと、視界に赤い数字が重なる。
室温、八度。
推奨室温まで不足、十度。
暖炉魔導具の残魔力、十分。
外部流出率、六十二パーセント。
壊れているのではない。
抜かれている。
「マルタさん、外板を外します。細口の銅針をお願いします」
「ほらよ」
「ノア」
店まで走ってきた少年が、びくりと肩を揺らした。
「はい!」
「水を一杯と、乾いた布を二枚お願いします」
「分かった!」
ノアが走っていく。
わたしは固定具を緩めた。弁の周囲には、新しい工具の跡がある。長年の劣化ではなく、最近誰かが開けて締め直した跡だった。
「院長先生。最近、点検に来た方はいますか」
「先月、王宮慈善局の技師様がいらっしゃいました。暖房費の補助を受けているので、定期点検だと」
王宮慈善局。
その言葉に反応して、数字が揺れた。
点検費、金貨十二枚。
実作業費、銀貨八枚。
差額、不明。
魔力供給契約、変更済み。
嫌な数字だった。
けれど、見えたなら処理するしかない。
「契約書はありますか」
「事務室にあります」
「後ほど確認します。今は暖炉を戻します」
弁を外すと、内側に薄い銀色の膜が貼られていた。
魔力の流れを抑える遮断膜だ。本来は暴走防止に使う部品だが、ここでは別の働きをしている。暖炉へ送られる魔力を細くし、余った分を外へ逃がしていた。
孤児院は寒くなる。
追加の魔石を買う。
それでも暖まらず、修理を頼む。
抜かれた魔力は、別の場所へ送られる。
わたしは奥歯を噛んだ。
数字は感情を持たない。
だからこそ、残酷なこともはっきり示す。
「直せるかい」
マルタさんが聞いた。
「今夜分は直せます。根本は契約を戻さないといけません」
「上等だ」
ノアが水と布を持って戻ってきた。
わたしは遮断膜を剥がし、焦げた縁を銅針で削る。流量は戻ったが、まだ安定しない。部品の一部が薄く歪んでいた。
「ノア、厨房に古い銅鍋はありますか。穴が開いていても構いません」
「へこんだのならある!」
「使えないものを一つ、持ってきてください」
院長先生が戸惑った顔をした。
「鍋を使うのですか?」
「新しい部品を買うより早くて安いので。今夜は暖めることを優先します」
王宮なら笑われる修理だろう。
美しくない。
格式もない。
応急処置でしかない。
けれど今、この部屋に必要なのは格式ではない。
熱だ。
ノアが抱えてきた古い銅鍋の縁を切り取り、即席の導流板を作る。歪んだ弁に差し込み、魔石の角度を調整する。
流量、三割。
五割。
七割。
「マルタさん、右を半目盛りだけ」
「ここかい?」
「もう少し。止めてください」
固定具を締める。
一拍だけ、部屋が静まり返った。
次の瞬間、暖炉の奥で青い火が膨らみ、橙色の炎へ変わった。
冷え切った部屋に、ゆっくり暖かさが広がっていく。
子どもたちが顔を上げた。
ノアが両手を暖炉にかざす。
「あったかい……」
その声で、胸の奥が詰まった。
王宮の広間で二百人に見られていたときより、王太子に捨てられたときより、その小さな声の方が深く刺さった。
前世のわたしは、数字を合わせても褒められなかった。
間違えなければ当然。
間違えれば責任。
期限に間に合えば、次の仕事が積まれるだけ。
でも、ここでは違った。
数字を直せば、部屋が暖かくなる。
契約を正せば、子どもが眠れる。
なら、わたしの加護は捨てたものではない。
「院長先生」
わたしは立ち上がった。
「暖炉は今夜持ちます。ただし、原因は孤児院側にはありません。魔力供給契約が不自然に変更されています」
院長先生の目に涙が浮かんだ。
「では、追加の魔石を買っても暖まらなかったのは……」
「使い方の問題ではありません。請求先を確認します」
「請求先?」
「孤児院ではない、という意味です」
そのとき、入口から低い声がした。
「その費用なら、私が立て替えよう」
振り向くと、黒い外套を着た男性が立っていた。
雪を払った銀の留め具。飾りの少ない服装。けれど、立ち姿には隙がない。
灰青色の瞳が、暖炉ではなく、わたしを見ていた。
院長先生が慌てて頭を下げる。
「辺境伯様」
北境辺境伯、カイ・ルーヴェン。
王国北部の雪深い国境を守る家の当主だ。王宮では、北境は金ばかりかかる土地だと言われていた。削減案のたびに、防衛費の帳簿がわたしの机に回ってきたことを思い出す。
「エリス・クラウゼル嬢だな」
「はい」
「王宮で婚約破棄された令嬢が、その夜に孤児院の暖炉を直しているとは思わなかった」
「わたしも、そうなるとは思っていませんでした」
「なぜ来た?」
「寒さは、明日の朝まで待ってくれませんので」
カイ様は一瞬だけ黙った。
それから、暖炉の火と子どもたちを見た。
「この孤児院の暖房費は、私が匿名で補助していた。だが先月から、魔石の消費量だけが増えた。王宮慈善局は、孤児院の使い方が悪いと言った」
「使い方ではありません。契約と弁に細工があります」
「やはりか」
低い声に、静かな怒りが混じった。
怒鳴らない怒りだった。
それだけで、少し話しやすいと思った。
「北境にも同じ症状が出ている」
カイ様は言った。
「暖房網の効きが悪くなり、魔石の消費だけが増えている。王宮の技師は老朽化だと言ったが、どうにも腑に落ちなかった」
わたしの視界の端で、赤い線が伸びていく。
孤児院の床下から通りへ。
通りから王都中央へ。
中央から、王宮南庭へ。
そこに浮かぶ名称を見て、わたしは息を止めた。
聖女リリアナ慈善基金。
不明支出、金貨八千七百枚。
昨日、王太子殿下の隣で微笑んでいた方の名前だった。
愛に勘定は不要だと言った方の基金から、ずいぶん大きな数字が漏れている。
「エリス嬢」
カイ様が言った。
「北境の暖房網を見てもらえるか」
「条件があります」
「言ってくれ」
「勤務時間を決めてください。食事を抜かせないでください。責任者と請求先を明確にしてください」
カイ様は、まっすぐにわたしを見た。
「当然だ」
当然。
その言葉が、思ったよりも深く胸に届いた。
前世でも王宮でも、それは当然ではなかった。
「では、お受けします」
わたしは院長先生から契約書を受け取り、マルタさんに紙を一枚借りた。
まずは、孤児院の修理費。
次に、魔力供給契約の確認。
その先に、聖女リリアナ慈善基金。
わたしはペン先をインクに浸した。
王宮を出て最初の仕事を、未払いにするわけにはいかない。
請求書の宛名は、これから決める。
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