第002話 王都北区の魔導具店
王宮の門が閉まる音は、思っていたより軽かった。
もっと重々しい音がするのかと思っていた。人生が大きく変わる瞬間には、それにふさわしい音が鳴るものだと、どこかで期待していたのかもしれない。
実際には、鉄の門が軋んで閉じただけだった。
わたしは外套の前をかき合わせ、王都の大通りを歩き出した。
手持ちは銀貨十二枚と銅貨三十枚。
伯爵令嬢としては心許ない。宿なしの人間としては、今夜を越すには足りている。使えるものを数えれば、少なくとも道端で立ち尽くす理由はなかった。
王都北区三番街は、貴族の馬車が通る西区とは空気が違う。
石壁には補修の跡があり、軒先には煤けた布が揺れている。夜更けだというのに、鍛冶場から金属を打つ音が細く聞こえた。
焼き栗の匂い。
革を干す匂い。
どこかの家のスープの匂い。
王宮の香水より、こちらの方がずっとお腹を思い出させる。
「リーヴェ魔導具修理店……」
看板の文字は半分ほど煤で黒くなっていた。扉の横に吊られた小さな魔導灯は消えている。
営業中とは言いがたい。
けれど、他に行く場所もなかった。
わたしは扉を叩いた。
一度目。
二度目。
三度目で、奥から低い声がした。
「壊れた鍋なら明日にしな。こっちは寝るところだよ」
「クラウゼル伯爵家のエリスと申します。母、セシリアの紹介状を持って参りました」
店の中が静かになった。
すぐに足音が近づき、扉が細く開く。
灰色の髪を後ろで束ねた、背の高い女性が立っていた。作業用の前掛けをつけ、指先には古い火傷の跡がある。
彼女はわたしのドレスではなく、手元の紹介状を見た。
「セシリアの娘かい?」
「はい」
「王宮にいるはずじゃなかったのかい」
「先ほど婚約破棄されました」
「それで今夜ここまで来たのか」
「はい」
女性は数秒だけわたしを見た。
それから扉を大きく開けた。
「入りな。私はマルタ・リーヴェ。この店の主人だ」
店内は、壊れた魔導具で埋め尽くされていた。
卓上灯、送風機、湯沸かし器、暖炉用魔石、片方の針が止まった銀時計。どれも王宮に飾られるような高級品ではない。
けれど、それぞれに使われた跡があった。
暗い部屋を照らすための灯り。
水を沸かすための器具。
冬を越すための暖炉。
働く手を少しだけ楽にする道具。
王宮の魔導具より、こちらの方がずっと人の生活に近い。
「泊まるところは?」
マルタさんが聞いた。
「ありません」
「金は?」
「銀貨十二枚と銅貨三十枚です」
「伯爵令嬢の財布にしては寂しいね」
「婚約破棄直後の財布としては現実的です」
マルタさんの口元が少しだけ動いた。
「口は回る。手は?」
「帳簿と魔導具の故障原因を見るのは得意です。作る方は、まだ学ぶ必要があります」
「見る?」
わたしは店の奥にある暖炉を指さした。
「その暖炉魔導具、火力が落ちています。魔石は残っていますが、第三接続輪に煤と銅粉が詰まっています」
マルタさんの目が鋭くなった。
「開けてもいないのに?」
「数字が見えます」
「数字」
「魔力の流れ、部品の消耗、支払いの滞り、契約の歪み。そういうものが、わたしには数字として見えます」
感情は見えない。
だから人の心に寄り添えないと、殿下は言った。
けれど感情が見えなくても、寒い部屋の原因は見つけられる。滞った補助金の行き先も、壊れかけた部品も、未払いの請求書も。
それなら、この目にも使い道はある。
「直せるかい」
「道具を貸していただければ」
マルタさんは無言で革手袋と細い工具を渡した。
わたしはドレスの裾をまとめ、暖炉の前に膝をつく。貴族令嬢としては褒められない姿勢だろう。けれど、もう王太子妃候補ではない。
作業する人間として、動きやすい方を選ぶ。
外板を外すと、焦げた金属の匂いがした。
《帳簿視》で見えた通り、第三接続輪には煤と銅粉が詰まっている。劣化ではなく、応急処置を何度も重ねた結果だった。
「交換は不要です。掃除と調整で二百日ほど持ちます」
「部品代を取り損ねるね」
「不要な交換費を取ると、次の客が来なくなります」
「セシリアと同じことを言う」
母の名前に、手が止まりかけた。
「母も、ここへ?」
「よく来たよ。魔導具より帳簿を直していく子だったけどね」
マルタさんの声は淡々としていた。だからこそ、胸に残った。
わたしは接続輪を外し、煤を落とし、銅粉を払った。魔石の弁を少しだけ絞り、外板を戻す。
青白かった火が、ゆっくり橙色へ変わる。
店内に暖かさが広がった。
マルタさんは暖炉を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「二階に部屋がある」
やがて、そう言った。
「狭い。寝台は硬い。食事は店の残り。雨漏りはしない。家賃は修理補助で相殺。どうだい」
「お願いします」
「早いね」
「条件が明確ですので」
「いい返事だ」
そのとき、店の扉が激しく叩かれた。
「マルタ先生! 開けて! お願い!」
子どもの声だった。
マルタさんの顔から笑みが消える。扉を開けると、十歳くらいの少年が転がり込むように入ってきた。
頬は赤く、息は白い。
「北区孤児院の暖炉がまた止まった! 院長先生が、子ども部屋だけでもって……赤ちゃんが熱を出してるんだ!」
マルタさんが舌打ちした。
「先週直したばかりだよ」
少年の背後から、細い赤い線が見えた。
北区孤児院。
暖房魔導具。
供給不足。
その線は孤児院の方角から、王都中央へ向かって伸びている。
自然な故障ではない。
「マルタさん」
わたしは工具箱を手に取った。
「行きます」
「今日は婚約破棄されたばかりだろう。寝なくていいのかい」
「寝たいです」
本当に、寝たい。
前世でも今世でも、疲れを無視して動く人間は長持ちしない。そこは身に染みている。
けれど、暖炉の火が消えた部屋で、子どもは朝まで待てない。
「先に原因を見ます。修理できるかは、それから判断します」
マルタさんは棚から古い外套を取って、わたしの肩にかけた。
「請求書は出すんだよ」
「もちろんです」
人助けと未払いの放置は、別の問題だ。
わたしは少年の案内で、夜の北区へ踏み出した。




