第001話 婚約破棄ですか。では、未払い分を清算いたします
「エリス・クラウゼル。お前との婚約を破棄する」
王太子レオンハルト殿下の声が、建国祭前夜の広間に響いた。
音楽が止まる。
杯を掲げていた貴族たちの手が止まり、壁際の楽師までこちらを見る。二百人近い視線の中心で、わたしは婚約者だった人と向かい合っていた。
泣き崩れるべきだったのかもしれない。
けれど、そのときのわたしは、天井の魔導灯から目が離せなかった。
黄金色に輝く大きな魔導灯。その周囲に、わたしにしか見えない赤い数字が浮いている。
残魔力、十一秒。
支払い保留、三十七件。
今夜の消費魔力、通常夜会の四倍。
祝宴にしても、使いすぎだった。
「聞いているのか、エリス」
「はい。聞いております」
わたしは膝を折り、礼をした。
王太子に捨てられた伯爵令嬢としては、たぶん落ち着きすぎていたのだろう。殿下は不快そうに眉を寄せた。
「君はいつもそうだ。感情がない。口を開けば予算、契約、納期、備蓄。王妃となる者に必要なのは、人の心に寄り添う温かさだ」
殿下の隣で、白金の髪の少女が目を伏せた。
聖女リリアナ様。
癒やしの奇跡を持つとして神殿から王宮へ迎えられ、ここ数か月で殿下の隣に立つことが増えた方だ。
「エリス様は、とても立派な方です」
リリアナ様は、悲しそうに言った。
「けれど、人の心は数字では測れません。愛に、勘定は必要ないと思うのです」
周囲から小さな同意の声が漏れた。
殿下と聖女。
冷たい婚約者。
真実の愛。
広間の空気は、わたしを悪役に決めつけるには十分だった。
「殿下」
わたしは顔を上げた。
「婚約破棄は、王家側のご都合という認識でよろしいでしょうか」
「この場で何を言っている」
「契約上、必要な確認です」
「だから君は嫌なのだ!」
殿下の声が大きくなる。
「婚約を破棄されて、最初に出る言葉が契約か。涙も怒りもなく、ただ金の計算をする。そんな女を、私は妻にしたくない」
胸の奥が、少し痛んだ。
五年間、わたしは殿下の婚約者として過ごしてきた。王宮の帳簿を整え、滞っていた支払いを確認し、兵站費や孤児院への補助金が削られないよう調整した。
好きだったのかと問われれば、もう分からない。
けれど、尽くしてきたことは事実だった。
前世のわたしは、経理として働いていた。
月末処理、未払い伝票、無茶な納期、押されない承認印。責任だけが下へ落ちてくる職場で、最後は高熱を出したまま出社し、会社の階段で意識を失った。
次に目を覚ましたとき、わたしはクラウゼル伯爵家の娘になっていた。
この世界で授かった加護は《帳簿視》。
金、物、契約、魔力の流れが数字として見える。派手な攻撃魔法でも、癒やしの奇跡でもない。王宮では「地味な加護」と笑われた。
けれど地味な数字がなければ、宮殿の灯りひとつ点かない。
「承知しました」
わたしは袖口から、折り畳んだ書類を取り出した。
「王家側の都合による婚約破棄として、婚約契約第五条を適用いたします。違約金、立替金、未払い分、利息を含めた請求書はこちらです」
殿下の顔が固まった。
「請求書?」
「写しは財務院、王宮監査室、クラウゼル伯爵家、公証人へ送付済みです」
「エリス!」
「また、わたくしが私費およびクラウゼル伯爵家の信用で補填していた王宮運営費は、本日二十時をもって停止いたします」
広間がざわめいた。
リリアナ様が困ったように首を傾げる。
「エリス様、それは脅しですか?」
「いいえ。清算です」
わたしは書類を殿下の足元ではなく、側近の財務官へ差し出した。
「命に関わる支出は三日分だけ残しています。孤児院、医療院、北門防衛線の暖房設備です。止まるのは宴会用魔導灯、観賞用噴水、南庭の薔薇園、癒やしの花壇、そのほか緊急性のないものです」
「私の花壇は、民の心を癒やすためのものです」
リリアナ様の声が震えた。
「月に金貨四百枚の水晶肥料が必要です」
「でも、愛に勘定は不要です」
「勘定しない愛は、別の誰かに請求されます」
その言葉が終わるのと同時に、天井の魔導灯がひとつ消えた。
続いて、ふたつ目。
三つ目。
広間に悲鳴が上がった。黄金色の光が順に失われ、豪奢な壁画も、銀の食器も、殿下の晴れやかな衣装も、薄暗がりの中で色をなくしていく。
魔導灯は落ちない。
燃えもしない。
ただ、祝宴の見栄だけが消えていった。
「何をした、エリス!」
「わたくしが止めていた赤字を、お返ししました」
「お前が王宮を支えていたとでも言うつもりか!」
「少なくとも、今夜の灯りはそうでした」
財務官が青ざめた顔で請求書を見ている。そこに並ぶ数字の意味を、彼だけは理解していた。
レオンハルト殿下はまだ怒っていた。
けれど、その怒りの奥に、小さな戸惑いが混じり始めている。
わたしはもう一度、深く礼をした。
「これまでお世話になりました」
「待て。誰が退出を許した」
「婚約者ではない男性と、暗い広間で長く話すのは外聞が悪いかと」
今度は、どこかで誰かが息を殺して笑った。
わたしは振り返らず、広間を出た。
王宮の外階段に出ると、冷たい夜風が頬を打つ。胸の奥はまだ痛んでいた。平気なわけがない。五年分の努力を、祝宴の余興のように捨てられたのだから。
それでも、足は止まらなかった。
鞄の底には、母が遺した古い紹介状がある。
王都北区三番街。
リーヴェ魔導具修理店。
封筒の裏には、母の字でこう書かれていた。
困ったときは、ここへ行きなさい。
数字を嫌わない人がいるから。
王宮の屋根の上に、わたしにしか読めない数字が浮かんでいる。
破綻予測、九十二日後。
思ったより早い。
けれど、もうわたしの帳簿ではない。
今夜から付け直すべきなのは、わたし自身の人生の帳簿だった。




