番外編1 王太子殿下の北境研修
レオンハルト殿下が北境へ正式視察に来た日、料理長は朝から機嫌がよかった。
理由は単純だ。
「王太子殿下に、北境の台所を見せられるからね」
「それは機嫌がよい理由なのですか」
わたしが尋ねると、料理長は大鍋をかき混ぜながら笑った。
「王都の偉い人は、食事が皿に乗ってからしか見ないだろう。今日は、皿に乗る前を見てもらう」
それは良い研修だと思った。
視察表には、北壁、医療院、街道灯、地下炉、氷竜協定記念板、白灯支援基金の掲示板が並んでいる。
料理長はそこへ、台所を追加した。
理由は、食料調達と暖房網の関係を理解するため。
書面上は非常にもっともらしい。
実態は、王太子に玉ねぎを刻ませるためだと思う。
殿下は厚い外套を着て到着した。
以前のような飾り過ぎた礼服ではない。動きやすい旅装で、手袋も北境用の厚手のものを選んでいる。
「エリス、これで凍らないか」
「凍りにくいと思います」
「合格ではないのか」
「靴底が少し薄いです」
殿下は真剣に足元を見た。
「次から直す」
学習速度は上がっている。
視察は北壁から始まった。
カイ様が防衛線を説明し、兵士たちが暖房小屋の使い方を見せる。殿下は何度も質問した。
「この小屋を減らすと、どうなる」
「吹雪の日に交代兵が凍傷を起こします」
「暖房費を削ると」
「兵の交代時間が短くなり、見張り精度が落ちます」
「つまり、防衛費は人件費だけではないのだな」
カイ様は頷いた。
「そうです。暖炉、靴底、湯、食事、休息。どれも防衛費です」
殿下は手帳に書いた。
以前の彼なら、そんな細かなことは部下に任せたかもしれない。
今は、自分で書いている。
次に医療院へ行き、湯の設備を見た。
医療責任者は、王太子相手でも遠慮しなかった。
「湯がぬるいと、洗浄が遅れます。洗浄が遅れると、治療費も死亡率も上がります。湯は贅沢ではありません」
殿下は深く頷いた。
「覚えておく」
昼前、問題の台所研修が始まった。
料理長は殿下へ前掛けを渡した。
「着てください」
侍従が慌てる。
「殿下にそのような」
「料理に袖を入れられる方が困るよ」
殿下は前掛けを受け取った。
「着よう」
台所の空気が少し変わった。
王太子が、素直に前掛けを着た。
料理長は玉ねぎを置く。
「今日はこれを刻みます」
「どのくらい」
「この籠ひとつ」
「多いな」
「北境の適量です」
わたしは思わず笑いそうになった。
殿下は包丁を持ち、ぎこちなく玉ねぎを刻み始めた。
最初の一個は大きさがばらばらだった。
料理長は容赦なく言った。
「それじゃ火の通りが揃わない」
「すまない」
「謝るより、次を揃えな」
「分かった」
王宮では、おそらく誰も殿下へそう言わなかった。
けれど殿下は怒らなかった。
何個も刻むうちに、少しずつ大きさが揃っていく。
涙も出ている。
玉ねぎのせいだろう。
たぶん。
「エリス」
殿下は目を赤くしながら言った。
「支出削減表を見るより、玉ねぎを刻む方がつらい」
「どちらも慣れです」
「君は両方できるのか」
「玉ねぎは料理長ほどではありません」
料理長が得意げに鼻を鳴らした。
昼食は、殿下が刻んだ玉ねぎ入りのスープだった。
味はいつもと同じくおいしい。
ただ、殿下は自分の皿を少し長く見ていた。
「皿に乗る前に、これだけの手がかかるのだな」
「はい」
「帳簿の数字にも、同じように手がある」
「そうです」
殿下は黙ってスープを飲んだ。
その後の視察報告書には、こう書かれていた。
北境防衛費の項目には、暖房、食料、医療、休息を含めて評価する必要がある。
また、玉ねぎを均等に刻むには訓練が必要である。
最後の一文は削ってもよかった。
しかしカーター財務官は残した。
「殿下が現場を見た証拠ですので」
確かに、そうかもしれない。




