第038話 エピローグ 黒字の春
春が来た。
北境の春は、王都の春より遅い。
雪解け水が石畳を流れ、屋根から落ちる雫が光り、冷たい土の下から小さな芽が出る。
王宮南庭のように、季節を無視して咲く薔薇はない。
その代わり、待った分だけ、芽吹きが嬉しい。
北境城下では、春告げ祭が開かれた。
雪祭りより小さな祭りだ。
今年は特別に、氷竜熱収支協定の初回返済達成祝いも兼ねている。
広場には廃材灯が飾られ、料理長の玉ねぎスープが大鍋で煮え、白灯支援基金の透明な寄付箱が置かれている。
寄付箱の横には、子ども用収支表。
ノアが、年下の子どもたちへ得意げに説明していた。
「この銅貨がパン。この銀貨が暖炉。この絵が竜への返済」
「竜、パン食べるの?」
「食べない。熱を返すの」
「熱ってどうやって数えるの?」
ノアは少し困り、わたしを見た。
「エリス姉ちゃん!」
わたしは笑って、子どもたちの前にしゃがんだ。
「熱は、暖かさの量です。お鍋を火にかけると温かくなりますよね。その温かさを少しずつ集めて、氷竜さんへ返しています」
「氷竜さん、怒ってない?」
「今は怒っていません」
「よかった」
本当に、よかった。
広場の端では、リリアナ様が寄付者に月次報告を配っている。
彼女の説明は、以前よりずっと上手くなった。
「こちらが先月の支出です。孤児院の暖炉部品、医療院の包帯、街道灯保守、竜脈炉返済。ご質問があれば、こちらに記録します」
寄付者の一人が言う。
「聖女様、難しい顔をするようになったね」
リリアナ様は微笑んだ。
「帳簿を見る顔です」
「いい顔だ」
彼女は少し照れた。
王宮からは、レオンハルト殿下も来ていた。
地方視察の一環として、正式に北境を訪れたのだ。
彼は厚い外套を着て、料理長のスープを両手で持っている。
「熱い」
「熱いものですので」
わたしが言うと、殿下は苦笑した。
「北境に来て、初めて防衛費の意味が少し分かった」
「少しですか」
「全部分かったと言うほど、傲慢には戻りたくない」
その返事は悪くなかった。
彼はこの後、北壁、医療院、街道灯、氷鳴き谷の入口を視察する予定だ。
もちろん、行程には休憩時間を入れている。
王太子の視察表にも、休憩は必要だ。
グレンは、広場の厨房裏で玉ねぎを刻んでいた。
護衛付きの賠償労役である。
彼はまだ誇りを完全には捨てていない顔をしているが、包丁の扱いは少し上手くなった。
料理長が後ろから言う。
「薄く切りすぎると煮崩れるよ」
「分かっています」
「分かってる手つきじゃないね」
王宮慈善局長だった男が、北境の料理長に玉ねぎで叱られている。
人生の収支は複雑だ。
監査院の仕事は忙しい。
王宮財務はまだ完全に黒字ではない。
白灯支援基金も、失った信頼を少しずつ取り戻している途中だ。
氷竜への返済は三十年計画で、初年度を終えただけ。
北境暖房網も、古い導管の交換が続く。
すべて解決したわけではない。
けれど、帳簿に載った問題は、もう誰か一人の机の隅で眠らない。
そこが大きく違う。
夕方、祭りの灯りがともる頃、カイ様がわたしを城壁の上へ誘った。
春の風は冷たいが、冬ほど刺さない。
城下の広場には、人々の声と灯りが広がっている。
「エリス」
カイ様が言った。
「婚約の予算案が通った」
「どの案ですか」
「小規模、北境開催、王都には報告会を兼ねた別日程。猫席あり」
「妥当です」
「では、次は正式な申し込みをしてもいいか」
胸が、静かに跳ねた。
前向きな保留を出してから、何度も一緒に予算案を作った。
式典費、招待客、移動日程、休暇、監査院の代行体制。
仕事の話をしながら、少しずつ気持ちも整理してきた。
もう、保留勘定のままではない。
わたしは城下の灯りを見た。
孤児院の暖炉。
北境の街道灯。
王宮の財務院。
氷鳴き谷の竜脈炉。
いろいろな数字と人がつながって、今のわたしがいる。
「はい」
わたしは答えた。
「お願いします」
カイ様は、深く息を吐いた。
緊張していたらしい。
「エリス・クラウゼル」
彼は片膝をついた。
手にしているのは、宝石の指輪ではなかった。
小さな銀の指輪。
内側には、細い文字が刻まれている。
食事を抜かない。
無理をしすぎない。
未払いを放置しない。
隣に立つ。
「結婚してほしい」
わたしは笑ってしまった。
泣きそうでもあった。
「指輪に条項が多いです」
「大切だと思って」
「大切です」
わたしは指輪を受け取った。
王家の婚約指輪よりずっと小さい。
でも、こちらの方が今のわたしには合っている。
「お受けします」
カイ様が、ゆっくりわたしの指に指輪を通した。
冷たい銀が、すぐに体温で温まっていく。
城下から歓声が上がった。
見られていたらしい。
広場でトマが手を振っている。
料理長が鍋の蓋を叩いている。
リリアナ様は泣いている。
レオンハルト殿下は、少し寂しそうに、でも穏やかに拍手していた。
ルルは城壁の端に座り、当然という顔でこちらを見ている。
監査補助の承認も得たらしい。
その夜、北境の空には星が出ていた。
星には数字が浮かばない。
ただ綺麗だった。
わたしは、かつて王宮を出た夜にも同じことを思った。
あのときは、何もかも失った気がしていた。
今は違う。
失ったものはある。
けれど、清算したものもある。
新しく得た仕事、仲間、居場所、約束。
そして、自分を粗末に扱わない生き方。
わたしの人生の帳簿は、まだ完璧ではない。
赤字の日もあるだろう。
未分類の感情も、予想外の支出も、突然現れる竜の債権もあるかもしれない。
それでも、もう一人で抱え込まない。
隣には、同じ帳簿を見てくれる人がいる。
わたしは指輪に触れた。
銀の内側の小さな文字を思い出す。
食事を抜かない。
無理をしすぎない。
未払いを放置しない。
隣に立つ。
どれも、わたしには愛の言葉に聞こえた。
北境に、黒字の春が来た。
本編完結です。後日談を数話だけ続けます。




