表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
38/43

第038話 エピローグ 黒字の春

春が来た。


北境の春は、王都の春より遅い。


雪解け水が石畳を流れ、屋根から落ちる雫が光り、冷たい土の下から小さな芽が出る。


王宮南庭のように、季節を無視して咲く薔薇はない。


その代わり、待った分だけ、芽吹きが嬉しい。


北境城下では、春告げ祭が開かれた。


雪祭りより小さな祭りだ。


今年は特別に、氷竜熱収支協定の初回返済達成祝いも兼ねている。


広場には廃材灯が飾られ、料理長の玉ねぎスープが大鍋で煮え、白灯支援基金の透明な寄付箱が置かれている。


寄付箱の横には、子ども用収支表。


ノアが、年下の子どもたちへ得意げに説明していた。


「この銅貨がパン。この銀貨が暖炉。この絵が竜への返済」


「竜、パン食べるの?」


「食べない。熱を返すの」


「熱ってどうやって数えるの?」


ノアは少し困り、わたしを見た。


「エリス姉ちゃん!」


わたしは笑って、子どもたちの前にしゃがんだ。


「熱は、暖かさの量です。お鍋を火にかけると温かくなりますよね。その温かさを少しずつ集めて、氷竜さんへ返しています」


「氷竜さん、怒ってない?」


「今は怒っていません」


「よかった」


本当に、よかった。


広場の端では、リリアナ様が寄付者に月次報告を配っている。


彼女の説明は、以前よりずっと上手くなった。


「こちらが先月の支出です。孤児院の暖炉部品、医療院の包帯、街道灯保守、竜脈炉返済。ご質問があれば、こちらに記録します」


寄付者の一人が言う。


「聖女様、難しい顔をするようになったね」


リリアナ様は微笑んだ。


「帳簿を見る顔です」


「いい顔だ」


彼女は少し照れた。


王宮からは、レオンハルト殿下も来ていた。


地方視察の一環として、正式に北境を訪れたのだ。


彼は厚い外套を着て、料理長のスープを両手で持っている。


「熱い」


「熱いものですので」


わたしが言うと、殿下は苦笑した。


「北境に来て、初めて防衛費の意味が少し分かった」


「少しですか」


「全部分かったと言うほど、傲慢には戻りたくない」


その返事は悪くなかった。


彼はこの後、北壁、医療院、街道灯、氷鳴き谷の入口を視察する予定だ。


もちろん、行程には休憩時間を入れている。


王太子の視察表にも、休憩は必要だ。


グレンは、広場の厨房裏で玉ねぎを刻んでいた。


護衛付きの賠償労役である。


彼はまだ誇りを完全には捨てていない顔をしているが、包丁の扱いは少し上手くなった。


料理長が後ろから言う。


「薄く切りすぎると煮崩れるよ」


「分かっています」


「分かってる手つきじゃないね」


王宮慈善局長だった男が、北境の料理長に玉ねぎで叱られている。


人生の収支は複雑だ。


監査院の仕事は忙しい。


王宮財務はまだ完全に黒字ではない。


白灯支援基金も、失った信頼を少しずつ取り戻している途中だ。


氷竜への返済は三十年計画で、初年度を終えただけ。


北境暖房網も、古い導管の交換が続く。


すべて解決したわけではない。


けれど、帳簿に載った問題は、もう誰か一人の机の隅で眠らない。


そこが大きく違う。


夕方、祭りの灯りがともる頃、カイ様がわたしを城壁の上へ誘った。


春の風は冷たいが、冬ほど刺さない。


城下の広場には、人々の声と灯りが広がっている。


「エリス」


カイ様が言った。


「婚約の予算案が通った」


「どの案ですか」


「小規模、北境開催、王都には報告会を兼ねた別日程。猫席あり」


「妥当です」


「では、次は正式な申し込みをしてもいいか」


胸が、静かに跳ねた。


前向きな保留を出してから、何度も一緒に予算案を作った。


式典費、招待客、移動日程、休暇、監査院の代行体制。


仕事の話をしながら、少しずつ気持ちも整理してきた。


もう、保留勘定のままではない。


わたしは城下の灯りを見た。


孤児院の暖炉。

北境の街道灯。

王宮の財務院。

氷鳴き谷の竜脈炉。


いろいろな数字と人がつながって、今のわたしがいる。


「はい」


わたしは答えた。


「お願いします」


カイ様は、深く息を吐いた。


緊張していたらしい。


「エリス・クラウゼル」


彼は片膝をついた。


手にしているのは、宝石の指輪ではなかった。


小さな銀の指輪。


内側には、細い文字が刻まれている。


食事を抜かない。

無理をしすぎない。

未払いを放置しない。

隣に立つ。


「結婚してほしい」


わたしは笑ってしまった。


泣きそうでもあった。


「指輪に条項が多いです」


「大切だと思って」


「大切です」


わたしは指輪を受け取った。


王家の婚約指輪よりずっと小さい。


でも、こちらの方が今のわたしには合っている。


「お受けします」


カイ様が、ゆっくりわたしの指に指輪を通した。


冷たい銀が、すぐに体温で温まっていく。


城下から歓声が上がった。


見られていたらしい。


広場でトマが手を振っている。


料理長が鍋の蓋を叩いている。


リリアナ様は泣いている。


レオンハルト殿下は、少し寂しそうに、でも穏やかに拍手していた。


ルルは城壁の端に座り、当然という顔でこちらを見ている。


監査補助の承認も得たらしい。


その夜、北境の空には星が出ていた。


星には数字が浮かばない。


ただ綺麗だった。


わたしは、かつて王宮を出た夜にも同じことを思った。


あのときは、何もかも失った気がしていた。


今は違う。


失ったものはある。


けれど、清算したものもある。


新しく得た仕事、仲間、居場所、約束。


そして、自分を粗末に扱わない生き方。


わたしの人生の帳簿は、まだ完璧ではない。


赤字の日もあるだろう。


未分類の感情も、予想外の支出も、突然現れる竜の債権もあるかもしれない。


それでも、もう一人で抱え込まない。


隣には、同じ帳簿を見てくれる人がいる。


わたしは指輪に触れた。


銀の内側の小さな文字を思い出す。


食事を抜かない。

無理をしすぎない。

未払いを放置しない。

隣に立つ。


どれも、わたしには愛の言葉に聞こえた。


北境に、黒字の春が来た。

本編完結です。後日談を数話だけ続けます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ