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第036話 契約書ではない返事

カイ様への返事を書くのに、三日かかった。


王宮財務再建の見積書は半日で作れた。


北境監査室の予算案は一日でできた。


氷竜熱収支協定の初年度返済表も、少し悩んだが二日で整った。


けれど、契約書ではない返事は難しい。


条件を書きそうになる。


勤務時間。

居住地。

食事。

責任範囲。


そういうものは大切だ。


とても大切だ。


でも、それだけでは返事にならない。


わたしは机に向かい、何枚も紙を無駄にした。


一枚目。


カイ・ルーヴェン閣下。


ご提案につきまして、以下条件を確認いたします。


これは違う。


二枚目。


カイ様。


前向きな保留について、現在検討中です。


これも違う。


三枚目。


あなたの隣は、暖かいと思います。


書いた瞬間、顔が熱くなって紙を伏せた。


なぜ自分で書いた文章に動揺しなければならないのか。


《帳簿視》にも、こういうときの正解は表示されない。


ルルが机の上に乗り、失敗した紙を踏んだ。


「監査補助、これは機密です」


ルルは何も気にしていない。


猫は恋文の守秘義務を理解しない。


そこへ、リリアナ様が訪ねてきた。


彼女は白灯支援基金の月次報告を持っていた。


「エリス様、確認をお願い……あら」


机の上の紙を見て、彼女は目を瞬いた。


「お手紙ですか」


「業務ではない手紙です」


「まあ」


リリアナ様の顔が、ぱっと明るくなった。


「カイ様への?」


「なぜ分かるのですか」


「北境城の方々は、だいたい分かっています」


「だいたい」


「料理長も、トマ様も、イザベル様も、たぶんルルさんも」


ルルが鳴いた。


知っているらしい。


わたしは額を押さえた。


「噂になっていますか」


「温かく見守られています」


「それは噂より厄介です」


リリアナ様は笑った。


「エリス様は、難しく考えすぎなのでは」


「難しいです」


「契約ではないのですから、正確でなくてもよいのでは?」


その言葉に、わたしは顔を上げた。


正確でなくてもよい。


恐ろしい言葉だ。


でも、少し救われる言葉でもあった。


「気持ちは、あとから修正できます」


リリアナ様は言った。


「私も、エリス様への謝罪を一度で正しくできませんでした。今も、全部許していただいたわけではありません。でも、少しずつ言葉と行動を重ねています」


「保留勘定の振替ですね」


「はい。最近、その言い方が分かってきました」


彼女は誇らしげだった。


わたしは、三枚目の紙をもう一度見た。


あなたの隣は、暖かいと思います。


正確ではない。


けれど、嘘ではない。


カイ様の隣は、暖かい。


無理をすれば止めてくれる。


仕事をすれば評価してくれる。


間違えば一緒に直してくれる。


沈黙しても、急かさない。


そういう暖かさだ。


わたしは新しい紙を出した。


カイ様。


お手紙をありがとうございます。


契約書ではない返事を書くのは、思っていたより難しいです。

私は、条件を確認し、責任を明確にし、未払いを避ける文章なら比較的早く書けます。

けれど、自分の気持ちを書くことには慣れていません。


それでも、書きます。


私は、あなたの隣にいると安心します。

仕事をしているときも、休めと言われるときも、黙って待っていてくださるときも。

あなたの隣は、暖かいと思います。


今すぐ婚約や結婚の返事をするには、まだ私の心の帳簿に整理中の欄があります。

ですが、同じ方向を見て歩きたいという気持ちはあります。


ですので、前向きな保留を、正式にお返事します。


追伸。

食事を抜かない条項は、今後も必要です。


エリス・クラウゼル。


書き終えると、手が少し震えていた。


リリアナ様は目を潤ませている。


「素敵です」


「そうでしょうか」


「はい。とてもエリス様らしいです」


「それは褒め言葉ですか」


「もちろんです」


ルルは手紙の端に前足を置き、紙質を確認した。


合格らしい。


夕方、わたしは西塔の監査室でカイ様に手紙を渡した。


「返事です」


「読んでも?」


「はい。ただし、目の前で読むのは」


「では、後で読む」


「いえ、読んでください」


自分でも矛盾していると思う。


カイ様は少し笑い、手紙を開いた。


読み進めるうちに、彼の表情がゆっくり柔らかくなった。


最後まで読んで、しばらく何も言わなかった。


「前向きな保留」


「はい」


「正式に受け取った」


「ありがとうございます」


「食事を抜かない条項も、受け取った」


「重要ですので」


彼は手紙を丁寧に畳んだ。


「エリス」


「はい」


「私も、君の隣は暖かいと思う」


それだけで、心臓が大きく動いた。


契約書には書けない反応だった。


窓の外で、雪解け水が屋根から落ちる音がした。


春は、もう近い。


その日から、カイ様は時々、仕事の合間にわたしの隣へ座るようになった。


何をするでもない。


同じ机で書類を読む。


同じ食堂でスープを飲む。


同じ窓から街道灯を見る。


それだけだ。


けれど、それは確かに新しい関係の始まりだった。


契約書ではない。


でも、丁寧に積み上げるもの。


わたしはその進み方を、悪くないと思った。

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