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第035話 辺境伯の提案

北境へ戻ると、城は春を待つ準備に入っていた。


雪はまだ残っている。


しかし、日差しは少しずつ柔らかくなり、街道灯の周りには溶けた雪が小さな水たまりを作っている。


氷竜への返済計画は、初年度分が始まった。


厨房炉と工房炉の廃熱回収。

地下炉の効率改善。

王宮からの魔石返済。

春告げの塔の停止分を北境へ戻す導管整備。


仕事は山ほどある。


だが、以前とは違う。


責任者がいる。

優先順位がある。

休憩表がある。


そして、料理長の食事監視がある。


「エリス、昼だよ!」


廊下の向こうから声が飛ぶ。


「あと一枚」


「その一枚は食後だ!」


逆らえない。


食堂へ向かう途中、カイ様に呼び止められた。


「午後、時間を取れるか」


「業務ですか」


「半分は」


「残り半分は?」


「私的な話だ」


わたしは少しだけ緊張した。


カイ様が私的な話と言うと、なぜか帳簿より難しいものが来る気がする。


午後、彼はわたしを北境城の西塔へ案内した。


あの隠し資料庫があった塔だ。


今は整理され、古文書と監査記録を保管する部屋になっている。ルルの寝床もある。


猫の寝床を公的資料庫に置くべきかは議論したが、ルルの貢献を考え、監査補助席として認められた。


「ここを、北境監査室にしたい」


カイ様は言った。


「王宮財務、北境暖房網、氷竜協定、白灯支援基金。それぞれの資料を保管し、定期的に照合する場所だ」


「良いと思います」


「責任者を、君に頼みたい」


業務の話だった。


わたしはすぐに考え始めた。


職員数。

権限。

予算。

王宮との連携。

出張費。

資料保管規程。


「条件を確認します」


「分かっている」


カイ様は小さく笑った。


「それが半分だ」


「残り半分は」


彼は少し黙った。


窓の外では、北境の街が見える。


煙突から煙が上がり、街道灯が淡く光り、遠くの山は白い。


「エリス嬢」


カイ様は、いつもより丁寧にわたしの名を呼んだ。


「私は、君に北境にいてほしい」


「業務責任者としてですか」


「それもある」


「それ以外も?」


「ある」


胸の奥が、静かに跳ねた。


カイ様は、誤魔化さなかった。


「君が王宮から来た夜、孤児院の暖炉を直した話を聞いた。最初は、有能な人だと思った。北境に必要な人材だと」


「はい」


「だが、一緒に仕事をするうちに、それだけではなくなった」


彼は言葉を選んでいる。


それが分かった。


「君は、数字を見ている。だが、その先の人を見失わない。自分が傷ついていても、寒い部屋を放っておけない。無理をしないと言いながら、時々無理をする。そこは今後も注意する」


「最後は評価でしょうか、注意でしょうか」


「両方だ」


少し笑ってしまった。


カイ様も笑った。


それから、真剣な顔に戻る。


「私は、君を大切にしたい」


その言葉は、まっすぐだった。


華やかな口説き文句ではない。


けれど、わたしにとっては、どんな宝石より受け取りにくい言葉だった。


大切にされる。


その感覚に、まだ慣れていない。


「返事は、今すぐでなくていい」


カイ様は続けた。


「君は婚約破棄の清算を終えたばかりだ。王宮との契約も始まる。北境監査室の件もある。だから、まずは提案として受け取ってほしい」


「提案」


「そうだ」


「書面はありますか」


言ってから、しまったと思った。


しかしカイ様は笑わなかった。


懐から、一枚の紙を出した。


「ある」


本当にあった。


わたしは受け取る。


そこには、こう書かれていた。


エリス・クラウゼル嬢へ。


私は、あなたと今後も共に仕事をし、食事をし、休む時間を守り、困難な帳簿を前にしたときは隣に立ちたい。


これは雇用契約ではない。

報酬や義務ではなく、私の希望である。


もし、あなたがいつか同じ方向を見てもよいと思えたなら、返事を聞かせてほしい。


カイ・ルーヴェン。


契約書ではない。


条件も違約金もない。


けれど、約束のように丁寧な手紙だった。


わたしは紙を持つ手に、少し力を込めた。


「保留にしてもよろしいですか」


「もちろん」


「ただし、前向きな保留です」


カイ様の目が少し見開かれた。


「それは、いい言葉だな」


「保留勘定にも種類がありますので」


「学ぶことが多い」


窓の外で、ルルが鳴いた。


いつの間にか足元にいたらしい。


猫はカイ様の手紙の端を前足で押さえ、わたしを見た。


監査補助の意見は不明だ。


ただ、手紙の紙質は合格らしい。


わたしは笑った。


「まずは北境監査室の見積書を作ります」


「頼む」


「それから、この手紙の返事を考えます」


「ああ」


西塔の窓から入る光は、冬の終わりの色をしていた。


まだ寒い。


でも、春は帳簿に載せられない速度で近づいている。

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