第034話 聖女基金の新しい箱
聖女リリアナ慈善基金は、名前を変えた。
新しい名称は、白灯支援基金。
聖女の名前は外された。
リリアナ様自身が望んだことだった。
「私の名前を前に出すと、また誰かが祈りや奇跡の話にしてしまいます」
彼女はそう言った。
「支援先に届くことの方が大切です」
白灯支援基金の新しい箱は、北境工房で作られた。
木製で、頑丈で、正面に用途を書く差し込み板がある。
暖房網修理。
孤児院食料。
医療院支援。
街道灯保守。
竜脈炉返済。
用途ごとに札を変えられる。
さらに、箱の横には小さな窓があり、中に入った硬貨の量が見えるようになっていた。
「透明性です」
工房代表が誇らしげに言う。
物理的にも透明だ。
遊び心として採用した。
基金の再出発式は、王宮ではなく北区孤児院で行われた。
最初に被害を受けた場所で、最初の報告をするためだ。
院長先生、子どもたち、寄付者、王宮財務院、神殿、北境の代表が集まった。
リリアナ様は壇上に立ち、以前より簡素な白い衣を着ていた。
「私は、聖女と呼ばれています」
彼女は言った。
「けれど、支援は奇跡だけでは続きません。薪、魔石、食料、包帯、修理費。そういうものが必要です。そして、それらがどこへ行ったのか記録する人も必要です」
彼女は少しだけこちらを見た。
「私は、それを教わりました」
ノアが最前列で手を振っている。
リリアナ様は緊張しながらも、話を続けた。
「白灯支援基金は、収支を月ごとに公開します。寄付箱には用途を明記します。支援先からの報告も掲示します。分からないことは、分からないと言います。そして調べます」
地味な宣言だ。
けれど、とても大切だ。
拍手は最初、少なかった。
それから少しずつ広がった。
派手な歓声ではない。
信頼は、一度壊れると簡単には戻らない。
それでいい。
少しずつ積み直すものだ。
式の後、リリアナ様は孤児院の暖炉の前で、ノアたちに囲まれていた。
「聖女様、帳簿見せて」
「これは大人用です」
「エリス姉ちゃんは見せてくれたよ」
「エリス様は特別です」
「じゃあ、聖女様も特別になれば?」
リリアナ様は真剣に考え込んだ。
「……子ども用の収支表を作りましょう」
ノアが歓声を上げる。
子ども用の収支表。
それは良い案だった。
硬貨の絵、暖炉の絵、パンの絵、包帯の絵。
数字が読めない子でも、何に使われたか分かる。
「エリス様」
リリアナ様がこちらへ来た。
「子ども用の収支表、手伝っていただけますか」
「もちろんです」
「あと、私は足し算が遅いので」
「練習しましょう」
「はい」
彼女は笑った。
あの夜の広間で、わたしたちは敵のように立っていた。
今、同じ暖炉の前で、子ども用の収支表を考えている。
人生は、時々かなり不思議な仕訳をする。
その日の夕方、マルタさんの店へ寄った。
リーヴェ魔導具修理店は、違約金の一部で改修されることになっている。
ただし、マルタさんは豪華にすることを拒んだ。
「作業台と換気と寝台。そこに金を使いな」
「看板は?」
「読めればいい」
「半分煤けています」
「味だよ」
「味で客が迷います」
「じゃあ、少し磨く」
妥協が成立した。
店の奥では、ノアが工具の使い方を教わっていた。
孤児院の子どもたちの中から、希望者が修理見習いとして通うことになったのだ。
もちろん、児童労働にならないよう時間は短く、食事と休憩を確保し、学びとして記録する。
マルタさんは面倒そうにしながら、契約書を最後まで読んだ。
「子どもの休憩時間まで書くのかい」
「書きます」
「まあ、あんたらしい」
母の紹介状から始まった場所が、今は誰かの学びの場所になろうとしている。
胸の奥が温かくなった。
帰り際、マルタさんが古い箱を渡してくれた。
「セシリアが残したものだよ。本当は、あんたが王宮で疲れ切る前に渡したかった」
箱の中には、母の古い帳簿と手紙が入っていた。
手紙には、こう書かれていた。
エリスへ。
数字を見る目は、人を冷たくするものではありません。
人が見落とした困りごとを、形にするための目です。
どうか、その目で自分自身も見てください。
あなたが無理をしすぎていないか。
あなたの心が赤字になっていないか。
わたしは、しばらく手紙から目を離せなかった。
母は、分かっていたのだろうか。
わたしがいつか、自分の心を赤字にすることを。
店の外で、カイ様が待っていた。
「大丈夫か」
「はい」
「泣いている」
「清算中です」
「そうか」
彼は何も聞かなかった。
ただ、隣に立ってくれた。
その沈黙が、今はありがたかった。




