第033話 婚約破棄の清算
婚約破棄の違約金が支払われたのは、春の気配が遠くに見え始めた頃だった。
財務院の小さな応接室で、わたしは公証人、カーター財務官、クラウゼル伯爵家の代理人、王宮側の担当官と向かい合っていた。
机の上には、厚い書類束がある。
王家側都合による婚約破棄違約金。
立替金返還。
未払い補填分。
利息。
私物返還不能分の賠償。
最後の項目に、寝間着が含まれている。
王宮を出た夜に惜しいと思った寝間着だ。
「寝間着分まで請求されたのですね」
カーター財務官が言った。
「私物ですので」
「異議はありません」
公証人が淡々と確認する。
「総額、金貨八千四百二十六枚。うち一部は王宮財務再建のため、分割払い。即時支払い分は金貨二千枚。残額は五年以内、利息付き」
かつてのわたしなら、一括でなければ不安だっただろう。
今は、現実的な返済計画の方が大切だと分かる。
王宮にも、命に関わる支出がある。
取り立てて王宮を潰せば、困るのは殿下だけではない。
だから、清算にも優先順位が必要だ。
「分割計画を確認しました。支払い遅延時の条項も明確です」
わたしは署名した。
エリス・クラウゼル。
その横に、レオンハルト殿下の署名がある。
彼は今回、同席していない。
王太子としての監督責任により、国王陛下から一定期間の政務制限と地方視察命令を受けていた。
北境にも、いずれ来ることになるらしい。
そのときは、暖かい服装をしてほしい。
王宮礼服では凍る。
手続きが終わると、クラウゼル伯爵家の代理人が書類をまとめた。
父は来なかった。
それでいい。
婚約破棄の夜、クラウゼル家は王宮の様子を見ていた。最初はわたしを戻そうとしたが、北境と王宮財務院が正式契約を結んだことで、態度を変えた。
最近届く手紙には、家族として心配している、という言葉が増えた。
ただし、その下には、違約金の一部を家の管理に回すべきだという提案もあった。
わたしは丁寧に断った。
家族だからといって、未払いを許す必要はない。
即時支払い分の金貨二千枚の使途は、すでに決めていた。
一つ目、北区孤児院の暖房魔導具更新。
二つ目、リーヴェ魔導具修理店の改修。
三つ目、北境工房に魔導具修理と会計を学ぶための奨学金。
四つ目、わたし自身の生活資金。
最後が大切だ。
自分の生活資金を後回しにしない。
これも、自分を粗末に扱わない練習だ。
手続き後、わたしは王宮の私物保管室へ向かった。
返還可能な私物がまとめられている。
ドレス数着、古い帳簿、母の櫛、予備のペン、宝石箱。
宝石箱の中には、王太子から贈られた婚約指輪が入っていた。
本来なら返還対象だ。
わたしはそれを手に取った。
美しい指輪だった。
大きな青い石がはめ込まれ、王家の紋章が内側に刻まれている。
かつては、これを見るたびに、自分の未来を思った。
王太子妃。
王宮。
国を支える役目。
今は、その未来が消えたことに、少しだけ安堵している。
指輪を返還用の箱に入れる。
その瞬間、胸の奥が静かになった。
完全に痛みが消えたわけではない。
でも、分類はできた。
これは、過去の科目だ。
今後の収支には入れない。
保管室を出ると、廊下にレオンハルト殿下がいた。
地方視察へ出る前なのだろう。旅装に近い服を着ている。
「エリス」
「殿下」
「清算手続きが終わったと聞いた」
「はい」
「分割払いにしてくれて、感謝する」
「王宮財務を潰すのが目的ではありませんので」
殿下は苦笑した。
「君は、最後まで君だな」
「変わったところもあります」
「そうだな」
彼は少し間を置いた。
「私は、地方を見てくる。北境にも、いずれ行く」
「暖かい外套をおすすめします」
「カイにも同じことを言われた」
「正しい助言です」
沈黙。
廊下の窓から、冬の薄い光が入る。
「エリス。君が幸せになることを、願っている」
その言葉に、かつてのわたしなら泣いたかもしれない。
今は、静かに受け取れた。
「ありがとうございます。殿下も、よい王族になってください」
「厳しいな」
「願いです」
殿下は少し笑い、頭を下げた。
今度の礼は、王太子としてではなく、過去に間違えた一人の人間としての礼に見えた。
王宮を出ると、カイ様が馬車のそばで待っていた。
「終わったか」
「はい。清算完了です」
「気分は」
「少し軽いです」
「ならよかった」
馬車に乗り込む前、わたしは王宮を振り返った。
暗かった夜。
婚約破棄。
消えた魔導灯。
胸の痛み。
そこから、ずいぶん遠くへ来た。
でも、逃げただけではない。
清算した。
それが、わたしには必要だった。
馬車が動き出す。
行き先は北境。
わたしの新しい帳簿は、まだ余白が多い。




