第030話 黒字の朝
寒波が去った朝、北境城下の広場には人が集まっていた。
雪はまだ深い。
空気は冷たい。
けれど、前日のように風が人を押し倒すことはない。街道灯は淡く光り、避難所の煙突からは白い煙が上がっている。
生きている場所の煙だ。
わたしは広場の掲示板に、寒波対応の暫定収支を貼った。
使用魔石。
氷竜炉より借入熱量。
王宮支援物資。
北境在庫消費。
寄付金使用額。
緊急修理部品、銅鍋一個。
最後の項目を見て、料理長が満足げに頷いた。
「ちゃんと書いてあるね」
「当然です」
「鍋にも名誉がある」
「はい」
銅鍋は部品として地下炉に残った。
今後、正式な部品に置き換える予定だが、工房代表は銅鍋の輪を記念として保管したいと言っている。
暖房網を救った鍋。
遊び心としては悪くない。
広場では、村人たちが掲示板を見ていた。
数字を読める人ばかりではない。
だから、イザベルさんが横に立って説明した。
「この分が氷竜から借りた熱です。今後三十年かけて返します」
「竜へ返すのかい」
老婆が尋ねる。
「はい」
「ちゃんと返しな。狼は困る」
とても実用的な理解だった。
リリアナ様は、避難所の子どもたちと一緒に毛布を畳んでいた。
彼女の白い衣は少し煤け、袖口にはインクの染みがある。
王宮の聖女としては、あまり完璧な姿ではない。
けれど、今の方がずっと信頼できる。
ノアが彼女に言った。
「聖女様、帳簿書くの遅いね」
リリアナ様が真剣に答える。
「練習中です」
「エリス姉ちゃんは速いよ」
「知っています。とても速いです」
「でも字は聖女様の方がきれい」
リリアナ様は少し嬉しそうに笑った。
わたしは自分の字を見た。
速いが、確かに少し事務的だ。
改善項目かもしれない。
昼前、王宮から正式な通達が届いた。
北境寒波対応への感謝。
氷竜熱収支協定の承認。
王宮見栄支出の削減。
慈善基金調査の継続。
グレン・バルドの正式起訴。
署名は、レオンハルト殿下と国王陛下の連名だった。
国王陛下。
これまで沈黙していた王宮の最上位が、ようやく表に出た。
体調不良で政務を王太子と側近に任せていたと聞くが、今回の騒動で黙っていられなくなったのだろう。
通達の最後に、一文があった。
エリス・クラウゼル嬢には、王宮財務再建に関する助言を正式に依頼したい。報酬および権限は、別途協議する。
「別途協議」
わたしは呟いた。
「悪くない表現です」
カイ様が隣で言う。
「受けるのか」
「北境の契約終了後に、条件を確認します」
「北境に残るという選択もある」
その声は、いつもより少し低かった。
わたしは彼を見た。
カイ様は広場の人々を見ている。
「君の仕事は、ここで必要とされている」
「王宮でも必要とされています」
「分かっている」
「どちらかを選ぶ必要がありますか」
カイ様が少し驚いた顔をした。
「どういう意味だ」
「王宮財務再建を、北境から監査することもできます。すべて王宮に戻らなければできないとは限りません」
「遠隔監査か」
「はい。定期的な出張と、書面提出。王宮に常駐すると、また便利に使われる可能性があります」
カイ様の口元が緩んだ。
「君は自分を守るのが上手くなった」
「練習中です」
そう答えたとき、自分でも少し驚いた。
以前なら、必要とされれば行かなければと思った。
王宮が困っている。
殿下が呼んでいる。
国が必要としている。
そんな言葉に、自分の睡眠も、食事も、気持ちも後回しにした。
でも今は違う。
必要とされる場所へ行くとしても、自分を差し出す必要はない。
条件を決め、責任を分け、休む時間を確保する。
それでいい。
広場の向こうで、氷竜炉から送られた熱が街道灯を淡く光らせている。
未払いはまだある。
王宮財務も、慈善基金も、北境暖房網も、竜への返済も。
けれど、今日の北境は黒字だった。
金額ではない。
昨日より暖かい部屋があり、消えなかった灯りがあり、生きて朝を迎えた人がいる。
それを、わたしは黒字と呼びたい。
夕方、ルルが掲示板の前に座っていた。
彼女は暫定収支の紙を見上げ、満足そうに鳴いた。
「監査補助、確認済みですね」
トマが言った。
「報酬は?」
「干し肉一切れです」
「竜との契約より簡単ですね」
「猫の方が厳しい場合もあります」
ルルは干し肉を二切れ要求した。
過払いは癖になる。
しかし寒波対応の功績を考え、一切れ半で合意した。
交渉は成立した。




