第029話 寒波の日
寒波は、予測通り九日目の朝に来た。
空が白く閉じ、風が城壁を叩き、窓の隙間から入る音だけで外の厳しさが分かった。
北境城下の広場は見えない。
街道灯は雪の向こうでぼんやり光り、避難所には村から集まった人々が身を寄せている。
しかし、暖炉は消えていなかった。
地下炉は安定している。
氷竜炉から借りた熱が、太い流れとなって北境暖房網へ入り、村、医療院、避難所、北壁の順に配分されていた。
足りない場所はある。
完璧ではない。
けれど、止まっていない。
「ラッカ村、室温十五度を維持」
「北壁兵舎、十二度。最低値以上」
「医療院、湯温安定」
「街道灯二十七番から三十三番、稼働中」
報告が次々入る。
制御室の壁には、時間割と配分表が貼られている。赤、青、黒の線が入り混じり、余白には料理長が描いた玉ねぎの絵まである。
なぜ玉ねぎ。
でも、制御班の緊張を少し和らげているので、効果はある。
リリアナ様は医療院で、負傷者と避難してきた老人を癒やしていた。
彼女からの報告には、数字が添えられている。
治療人数、十二。
重症、ゼロ。
包帯残、四十八。
温茶、要追加。
成長が著しい。
カイ様は北壁と制御室を往復している。
外套には雪が積もり、髪にも白いものがついていた。
「氷狼群は東の谷へ抜けた。数頭だけ北壁近くへ来たが、追い払った」
「負傷者は」
「軽傷二名。リリアナが見ている」
「暖房網の負荷は高いですが、持ちます」
「君は」
「わたしですか」
「持つのか」
その問いに、制御室の何人かがこちらを見た。
わたしは少し困った。
「休憩まで、あと二十分です」
「では二十分後に休む」
「はい」
「本当に休む」
「はい」
「ペンを置く」
「……はい」
念押しが多い。
だが、必要なのだろう。
二十分後、カイ様は本当にわたしのペンを取り上げた。
「休憩」
「これは横暴では」
「契約上の安全確保だ」
最近、その言葉が便利に使われている気がする。
食堂へ行くと、料理長が温かい粥を用意していた。
玉ねぎは入っていなかった。
「珍しいですね」
「今日は胃に優しい方がいいと思ってね」
「ありがとうございます」
食堂の隅では、避難してきた子どもたちが毛布にくるまっていた。
その中に、ノアがいた。
王都北区孤児院から、北境の支援先を見学する予定で来ていたのだが、寒波でそのまま避難所の手伝いに入っている。
「エリス姉ちゃん!」
彼は走ってきた。
「暖炉、ちゃんとついてるよ」
「よかったです」
「あのね、ラッカ村の子たちに、暖炉の近くで濡れた手袋を置きすぎるなって言った。前にマルタ先生が教えてくれたから」
「素晴らしいです」
ノアは誇らしげに笑った。
小さな知識が、別の場所で役に立っている。
これも黒字だ。
休憩後、制御室へ戻ると、最終局面に入っていた。
寒波の中心が北境城上空を通過する。
暖房網の負荷が最大になる時間帯だ。
「全系統、予定通り」
イザベルさんが言う。
「氷竜炉からの供給、安定」
工房代表が続ける。
「北壁熱流、維持」
トマが測定針を見る。
針は黄色の上限に近い。
危ないが、赤ではない。
わたしは配分表を見た。
これ以上、どこかを削る必要はない。
足りる。
足りるはずだ。
その瞬間、制御室の灯りが一度だけ揺れた。
全員が息を止める。
地下炉の奥で、古い部品が悲鳴を上げるような音を立てた。
「第三循環輪、摩耗限界です!」
工房代表が叫ぶ。
《帳簿視》にも赤い数字が浮かぶ。
破断予測、三分後。
「予備部品は」
「ありません。王宮発注分がまだ」
遅延。
こんなときに。
いや、こんなときだからこそ、未払いと遅延は人を襲う。
「代替品を」
わたしは周囲を見た。
金属。
輪。
熱に耐えるもの。
料理長が制御室の入り口で、鍋を持っていた。
「粥の鍋、銅だけど」
一瞬、全員が鍋を見た。
「使えます」
料理長は迷わず中身を別の器へ移した。
「持っていきな」
王宮なら絶対に起きない修理だ。
北境では、粥の鍋が暖房網を救う。
わたしは銅鍋の縁を切り取り、即席の循環輪補助を作った。
工房代表が支え、カイ様が制御弁を押さえ、トマが測定針を読む。
「二分!」
「固定具を」
「ここです!」
「カイ様、半目盛り戻して」
「了解」
「トマ、針は」
「黄色、下がってます!」
最後の留め具を締める。
地下炉の音が変わった。
悲鳴のような軋みが消え、低く安定した唸りになる。
破断予測、解除。
制御室に歓声が上がった。
料理長が空になった鍋を見て言う。
「その鍋、請求できるかい」
「もちろんです」
わたしは息を切らしながら答えた。
「北境暖房網緊急修理部品として」
「ならいい」
寒波の中心は、その後三時間かけて北境を通過した。
村の暖炉は消えなかった。
医療院の湯は保たれた。
北壁は持ちこたえた。
氷狼群は東の無人谷へ抜けた。
夜明け前、制御室の窓の外に、薄い青が差した。
「越えた」
カイ様が言った。
誰かが泣いた。
誰かが笑った。
わたしは椅子に座り込み、ようやく手の震えを自覚した。
カイ様が隣に膝をつく。
「よくやった」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
数字を合わせた。
暖炉が消えなかった。
人が生きて朝を迎えた。
それは、どんな舞踏会の拍手より大きな報酬だった。




