第028話 竜との契約書
竜との契約書を書く日が来るとは思わなかった。
前世の経理時代にも、王宮の財務室にも、そんな書式はなかった。
相手方名称。
氷鳴き谷に眠る氷竜。
これでよいのか、悩む。
所在地。
北境北壁外、氷鳴き谷深部。
住所としてはかなり曖昧だ。
代表者。
氷竜本人。
本人確認方法。
青白い鱗、金色の瞳、未返済熱量を記録する能力。
「エリス嬢」
カイ様が隣で書類を見た。
「本当に契約書にするのか」
「口約束では、百二十年後にまた困ります」
「それはそうだが」
「王宮にも認めさせます」
北境城の会議室には、対策本部の面々が集まっていた。
氷狼群は東の無人谷へ逸れ、ひとまず村への直撃は避けられた。しかし寒波はまだ来る。暖房網の負荷は高く、氷竜から借りた熱をどう扱うかが重要だった。
「竜脈炉からの熱は、三日分の緊急融資です」
わたしは説明した。
「融資」
トマが小声で繰り返す。
「竜の熱も融資なんですね」
「借りたら返すものは、基本的に融資です」
「竜、怒らせたらどうなりますか」
「利息が氷狼です」
会議室が静かになった。
とても分かりやすい利息だ。
「返済原資は三つです」
わたしは板に書いた。
一、王都春告げの塔の停止による余剰魔力。
二、北境工房炉、厨房炉、暖房網からの廃熱回収。
三、王宮見栄支出削減分による魔石購入。
料理長が手を上げた。
「台所の廃熱まで取るのかい」
「食事に支障のない範囲です。鍋を温めたあとの炉熱を、配管で回収します」
「面白いね。玉ねぎスープが竜の返済に役立つのかい」
「はい」
「なら、張り切って煮るよ」
玉ねぎの未来は明るい。
リリアナ様は、王宮へ送る説明文を作っていた。
竜への債務。
熱収支協定。
返済計画。
どれも神殿の祈祷文にはない言葉だ。
「エリス様、この一文はどうでしょう」
彼女は紙を見せてきた。
『自然より借りた恵みは、祈りと記録をもって返すべきである』
「良いです」
「本当ですか」
「はい。詩と帳簿の間です」
リリアナ様は少し得意そうに笑った。
その表情を見て、わたしは少しだけ胸が軽くなった。
翌日、王宮から魔導通信が入った。
レオンハルト殿下とカーター財務官だ。
通信板の向こうで、殿下は真剣な顔をしていた。
『氷竜との協定とは、どういう意味だ』
「言葉通りです。王国は過去に氷鳴き谷の熱を借り、返済を怠っていました。その結果、氷狼発生率が上がっています」
『竜が本当にいたのか』
「いました」
『……そうか』
殿下は額に手を当てた。
王太子として、認めたくない気持ちは分かる。
竜への未払い。
しかも百二十年分。
王宮財務の中でも、かなり奇妙な債務だ。
カーター財務官が通信板に近づいた。
『証拠は』
「古文書、旧導管、竜脈炉の稼働記録、氷狼群の進路変化、そして氷竜の証言です」
『氷竜の証言は、どう記録を』
「カイ様とトマ、騎士二名が聞いています」
トマが後ろで直立した。
証人としての緊張が伝わる。
殿下はしばらく黙り、それから言った。
『王宮として、過去の債務を認める』
カーターが驚いた顔をする。
『殿下、それは重大な』
『認めなければ、また忘れる』
殿下の声は低かった。
『私が忘れていたことが、今どれだけの人間を苦しめているか見た。王宮は、これ以上知らなかったで済ませない』
通信板の向こうで、カーターが深く頭を下げた。
『承知しました。財務院で債務記録を作成します』
「返済計画を送ります」
『頼む』
通信が切れた。
会議室に、少しだけ安堵が広がる。
王宮が認めた。
それだけで、百二十年放置された未払いが、ようやく帳簿に戻った。
「では、次は竜の署名ですね」
わたしが言うと、全員がこちらを見た。
「署名?」
カイ様が言う。
「契約書ですので」
「竜は文字を書くのか」
「分かりません」
「ではどうする」
「爪印でしょうか」
トマが真剣に青ざめた。
「紙が裂けます」
それは確かに問題だ。
結局、竜との契約書は、特殊な金属板に刻むことになった。
工房代表が張り切った。
「竜の爪でも裂けない板を作ります」
「大丈夫ですか」
「工房職人にとって、竜対応の契約板は一生に一度あるかないかの仕事です」
それはそうだろう。
三日目、わたしたちは再び氷鳴き谷へ向かった。
今回は護衛、工房職人、カイ様、わたし、そして公証人代理としてイザベルさんが同行する。
谷に着くと、白い霧の奥から氷竜が現れた。
以前より少し機嫌がよさそうに見える。
竜の機嫌を読む経験は少ないが、氷狼が出てこないので、たぶん合っている。
「氷竜殿」
わたしは契約板を掲げた。
「熱収支協定を作成しました」
氷竜は金色の瞳で文字を見た。
『人の子にしては、細かい』
「重要ですので」
『返済期限、三十年』
「一括は不可能です。ですが、毎年の返済量を定め、未達の場合は翌年加算します」
『利息は』
「氷狼以外でお願いします」
氷竜が喉を鳴らした。
今度は明らかに笑っていた。
『よかろう。未達の年は、翌年の春を三日遅らせる』
「農作物への影響が大きすぎます。一日で」
『二日』
「一日半」
カイ様が横で小さく言った。
「竜と値切っている」
「契約交渉です」
氷竜はしばらくわたしを見つめ、それから言った。
『一日半。記録せよ』
「ありがとうございます」
工房職人が金属板に修正を刻む。
氷竜は巨大な爪の先を、そっと板に当てた。
爪印は、雪の結晶のような紋様になった。
美しい。
そして、重い。
契約が成立した瞬間、谷の奥から温かな風が吹いた。
北境暖房網に、安定した熱が流れ込む。
停止予測、九日後。
三十四日後。
百二十日後。
表示が変わる。
わたしはようやく息を吐いた。
これで、寒波を越えられる。
氷竜は霧の中へ戻る前に、こちらを見た。
『数字を見る娘よ』
「はい」
『己の熱も、使いすぎるな』
竜にまで労務管理をされた。
わたしは、少しだけ笑った。
「承知しました」




