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第027話 氷鳴き谷の未払い

旧観測所は、雪に半分埋もれていた。


石造りの小さな建物で、屋根には氷柱が下がっている。入口の扉は歪み、蝶番は凍りつき、壁の一部には古いルーヴェン家の紋章が残っていた。


その下を、熱の赤い線が通っている。


「ここです」


わたしが言うと、カイ様はすぐ扉へ近づいた。


「トマ、周囲を警戒。氷狼が近い」


「はい」


遠吠えが聞こえる。


近い。


わたしは手袋をはめ直し、扉の下部にある凍った錠を見た。


《帳簿視》では、鍵の残耐久がほとんどない。


「壊しても修理費は低いです」


「では壊す」


カイ様が短く答え、剣の柄で錠を叩いた。


扉が開く。


中は、外よりわずかに暖かかった。


観測所の中央には、古い制御弁がある。そこから谷の奥へ向かって、太い導管が伸びていた。


制御弁の表面には、文字が刻まれている。


氷竜炉連絡弁。

緊急時のみ開放。

使用後、熱量を返済すること。


「返済」


トマが青い顔で読んだ。


「本当に書いてある……」


わたしは弁に手をかざした。


未返済熱量、百二十年分。

延滞、累積。

氷狼発生率、上昇。


「カイ様」


「なんだ」


「これは、ルーヴェン家だけの未払いではありません」


「どういう意味だ」


「昔、王宮が北境の竜脈炉から熱を借りています。霜害対策のために王都へ送った記録があります。その返済が、途中で止まっています」


カイ様の顔が険しくなった。


「王宮の未払いが、また北境へ来たのか」


「はい」


言っていて、少し嫌になった。


しかし数字はそう示している。


古い導管は、熱を北境から王都へ送るためにも使われていた。百年前の飢饉の年、王都周辺の畑を霜から守るため、氷竜炉の熱を借りた。


その後、返済するはずだった熱量は、王宮の記録から消えた。


北境の古文書だけが、それを覚えていた。


「閉じます」


わたしは制御弁を見た。


「ただ、完全に閉じると、氷鳴き谷へ流れていた熱が逆流します。今すぐ北壁へ戻せますが、氷竜への未払いは残ります」


「残ると?」


「氷狼は増え続けます」


遠吠えが、また近づいた。


トマが窓から外を見る。


「見えました。三頭、いや五頭!」


カイ様が剣を抜く。


「時間がない」


「弁を半分閉じます。北壁へ熱を戻しつつ、谷への流れを細く残します」


「できるか」


「やります」


制御弁は重かった。


凍りつき、錆びつき、百年分の未払いを抱えている。


わたし一人では動かない。


カイ様が片手で弁をつかむ。


「指示してくれ」


「右へ、ゆっくり。三分の一。止めて。少し戻して」


外で氷狼の唸り声がした。


騎士たちが応戦する音。


トマの声。


「一頭来ます!」


扉の隙間から、白い影が飛び込んだ。


カイ様が弁から手を離さず、片足で踏み込みを変えた。剣を持った騎士が横から氷狼を弾く。


わたしは制御弁の数字だけを見る。


熱流、北壁へ回復。

谷への流出、減少。

弁圧、危険域。


「止めてください!」


カイ様が止める。


次の瞬間、観測所の奥から低い音が響いた。


地鳴りのような。


あるいは、巨大な生き物が目を覚ましたような。


外の氷狼たちが、いっせいに遠吠えをやめた。


谷の奥から、白い霧が流れてくる。


霧の中に、金色の数字が浮かんだ。


未返済熱量。

返済期限超過。

債務者、王国。


そして、その奥に巨大な影が見えた。


氷の鱗。

青白い瞳。

折りたたまれた翼。


氷竜は、実在した。


トマが小さく呟く。


「竜って、帳簿をつけるんですね……」


わたしも同じことを考えていた。


氷竜の声は、風と岩が擦れるように響いた。


『また借りるのか、人の子』


カイ様が前に出た。


「北境辺境伯、カイ・ルーヴェンだ。無断で熱を借りたことを詫びる」


『詫びは熱にならぬ』


とても正論だった。


わたしは一歩前に出た。


「エリス・クラウゼルです。帳簿を確認しました」


氷竜の瞳が、こちらを向いた。


『数字を見る者か』


「はい」


『では問う。百二十年、返されぬ熱を、どう清算する』


竜に詰められる監査人。


なかなかない経験だ。


わたしは震える手で、古文書の写しを広げた。


「一括返済は不可能です」


カイ様が息を呑む。


しかし、嘘をついても仕方がない。


「ですが、返済計画は作れます」


『返済計画』


「はい。王都の春告げの塔を停止し、余剰熱を北境経由で竜脈炉へ戻します。北境の暖房網から出る廃熱も回収します。祭りや工房炉の余剰熱を季節ごとに送ります。返済期限は長期になりますが、記録を公開し、毎年照合します」


氷竜は黙った。


谷に風が吹く。


「また、王宮に正式な債務を認めさせます」


『王宮は、かつて約した。すぐ忘れた』


「今回は、公証人を入れます」


『公証人』


氷竜の瞳が少し細くなった。


興味を持ったらしい。


「竜と王国の熱収支協定を作ります。あなたの債権を記録します」


カイ様が横で小さく言った。


「エリス嬢、竜と契約する気か」


「未払いがありますので」


氷竜が、低く喉を鳴らした。


笑ったのかもしれない。


『よかろう。今宵は、熱を貸す』


谷の奥から、青白い光が流れた。


観測所の導管が温かくなる。


北壁へ向かう熱流が、一気に太くなった。


氷狼たちが遠吠えを上げ、東の無人谷へ進路を変えていく。


『ただし、記録せよ』


「もちろんです」


『遅延すれば、次は狼では済まぬ』


「承知しました」


竜は霧の中へ戻っていった。


トマがその場に座り込む。


「竜との契約書……どうやって書くんですか」


わたしは考えた。


「まず、相手方名称をどう表記するかですね」


カイ様が、緊張の切れた顔で笑った。


「そこからか」


「契約の基本です」


外では、氷狼群が東へ逸れ始めていた。


旧観測所の制御弁は、熱を北壁へ送り続けている。


九日間の工程表は、大きく書き換わった。


新しい項目。


氷竜への返済計画。


わたしの仕事は、ますます妙な方向へ進んでいる。


でも、不思議と嫌ではなかった。

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