第026話 氷狼群と夜勤表
氷狼は、普通の狼ではない。
毛は氷のように白く、吐く息は霜を生む。群れで動き、魔力の薄い場所を好み、暖かな村を襲うという。
わたしは説明を聞きながら、地図に線を引いた。
北壁。
氷鳴き谷。
ラッカ村。
街道灯二十七番。
北境城。
氷狼群は、まっすぐ南へ来ているわけではない。
弱い暖房網を避けるように、あるいは薄い魔力を追うように、曲がりながら進んでいる。
「誘導できる可能性があります」
わたしが言うと、トマが身を乗り出した。
「倒さなくていいんですか」
「倒せる数ですか」
「無理です」
「では、逸らします」
カイ様は頷いた。
「北壁前面に熱流を作り、東の無人谷へ向かわせる」
「はい。ただし、熱流を作る時間帯が重要です。氷狼が近づく前から流すと、導管が疲弊します。遅すぎると村へ入ります」
「監視班と制御班をつなぐ必要がある」
「さらに夜勤表が必要です」
カイ様が少しだけ眉を上げる。
「この状況でも勤務表か」
「この状況だからです」
前世で、緊急対応という言葉のもとに、何人も潰れていった。
緊急時に人を使い潰す組織は、次の緊急時に人がいない。
北境には、次の冬もある。
「六時間交代にします」
「四時間では?」
トマが言う。
「寒冷地で外に出る監視班は四時間。制御室は六時間。ただし、交代前後の引き継ぎを十五分。食事時間を別枠で確保」
料理長が頷いた。
「夜食は出す」
「ありがとうございます」
「夜食を食べない奴は、私が台所に引きずる」
非常に頼もしい。
夜勤表を壁に貼ると、兵士たちは意外そうな顔をした。
「休んでいいんですか」
一人が尋ねた。
「休んでください」
「でも、氷狼が」
「休んだ人が、次の班で動きます」
「寝ている間に何かあったら」
「起きていても、疲れて判断を誤れば何かあります」
兵士は黙った。
カイ様が横から言う。
「従え。これは命令だ」
「はい!」
休むことに命令が必要な土地。
それは、前世の職場と少し似ていた。
ただ、ここでは命令する人が、休ませる側に立っている。
その違いは大きい。
一日目の夜、北壁から狼煙が上がった。
氷狼群、北東二十里。
制御室に緊張が走る。
わたしは地下炉の前に立ち、導管図を確認した。
「第一熱流、準備」
工房代表が弁を開く。
「街道灯二十七番から三十三番まで、出力を二割下げます」
「村の暖房は?」
イザベルさんが確認する。
「最低値は維持。医療室と乳幼児の避難所は下げません」
「了解」
カイ様は北壁からの連絡を受ける係だ。
「氷狼群、進路変わらず」
「まだ流しません」
待つ。
これが難しい。
動けるものなら動きたい。
けれど早く動けば、熱が無駄になる。
手のひらに汗がにじむ。
トマが測定針を見ている。
リリアナ様は医療室で待機しながら、避難所名簿の確認をしている。
料理長は夜食を作っている。
皆が、自分の持ち場にいる。
「氷狼群、北東十五里。先頭が南へ曲がりました」
カイ様が言った。
「第一熱流、開始」
工房代表が弁を開く。
地下炉の青い光が強まり、北壁前面へ熱が流れる。
わたしの視界に、魔力の線が浮かぶ。
北壁から東へ。
無人谷へ。
氷狼群の進路が、少しだけ揺れた。
「反応あり」
北壁から伝令が来る。
「先頭、東へ寄っています!」
制御室に息が漏れた。
成功しかけている。
しかし次の瞬間、赤い数字が跳ねた。
旧導管、圧力上昇。
未登録支線、開放。
熱流、北西へ漏出。
「未登録支線?」
わたしは地図を見た。
北西には、使われていない古い導管がある。王宮の資料にも、北境の台帳にも載っていない。
氷鳴き谷へ向かう線だ。
「熱が谷へ逃げています」
「閉じられるか」
カイ様が尋ねる。
「ここからは無理です。支線の弁が現地にあります」
「場所は」
「北西の旧観測所。氷鳴き谷の入口です」
トマが青ざめた。
「そこ、今夜の氷狼の進路に近いです」
第一熱流は弱まり、氷狼群の進路が再び南へ戻り始めた。
制御室の空気が凍る。
「私が行く」
カイ様が言った。
「危険です」
「誰かが閉じなければ、ラッカ村へ流れる」
「わたしも行きます」
「だめだ」
即答だった。
「弁の状態は、現地で見なければ」
「君を氷狼の近くへ連れていけない」
「では、熱流の漏れを止められません」
カイ様の表情が険しくなる。
「エリス」
「これは業務判断です」
「私は雇用主として、安全を」
「安全確保のために同行者を増やしてください。わたし一人で行くとは言っていません」
一瞬、沈黙。
それからカイ様は深く息を吐いた。
「君は、本当に交渉がうまくなった」
「必要に迫られました」
結局、旧観測所へ向かう班が組まれた。
カイ様、わたし、トマ、騎士二名。
リリアナ様は医療室で待機。
料理長は出発前に、わたしの手へ温かい包みを押しつけた。
「食べな。歩きながらでも」
「何ですか」
「玉ねぎ入り焼き菓子」
「また玉ねぎ」
「北境の黒字食材だよ」
笑う余裕が少し戻った。
雪の夜、旧観測所へ向かう。
風は強く、遠くで獣の遠吠えが聞こえた。
わたしの視界には、赤い線が氷鳴き谷へ伸びている。
熱が逃げている。
そして、その先に薄い金色の数字が浮かんでいた。
未返済熱量、膨大。
債権者、氷竜。
わたしは焼き菓子を一口食べた。
甘い玉ねぎの味がした。
竜との交渉に向かうには、少し庶民的すぎる味だった。
でも、悪くない。




