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第022話 王太子殿下の遅い謝罪

医療院の湯は、十分に温かかった。


王宮の医療院だ。


以前は、予算削減で湯がぬるい日もあった。わたしが裏で調整していた頃は何とか保っていたが、正規の予算ではいつも不足していた。


今、湯が温かいのは、命に関わる支出を残したからだ。


手のひらに薬を塗られながら、わたしは少しだけ安心した。


「軽い擦過傷と筋肉疲労ですね」


医師が言った。


「数日は重いものを持たないように」


「ペンは重いものに入りますか」


「長時間なら入ります」


「困ります」


「困っても休んでください」


医師の声が強かった。


王宮にも、まともに休めと言う人はいたのだ。


わたしが知らなかっただけか、聞く余裕がなかっただけかもしれない。


診察室を出ると、廊下にレオンハルト殿下が立っていた。


以前なら、王太子を待たせるなど許されなかった。


今は、医師が先に言った。


「殿下、患者は疲れています。長話は避けてください」


殿下は素直に頷いた。


これだけで、少し奇妙な光景だった。


「エリス」


「殿下」


「話せるか」


「五分なら」


殿下は苦笑しかけ、すぐに真顔に戻った。


「君は、本当に時間を区切るのだな」


「医師の指示です」


「そうだな」


廊下の窓から、南庭が見える。


春告げの塔は停止し、庭には騎士と技師が立ち入り規制をしていた。グレンは拘束され、慈善局の帳簿は財務院と公証人の立ち会いで押収された。


問題は終わっていない。


むしろ、これから正式な調査が始まる。


殿下は窓の外を見たまま言った。


「私は、何も見ていなかった」


わたしは黙っていた。


「君が細かいことを言うたび、面倒だと思っていた。王太子である私が、大きなことを見ているつもりだった。国、威信、民の心、愛……そういうものを」


彼は自嘲するように笑った。


「だが、大きなことは、小さな支払いの上に立っていた」


それは、わたしが何度も言おうとして、届かなかったことだった。


今さら届いたのか。


そう思うと、胸の奥が痛んだ。


遅い。


でも、遅くても届くことはある。


「エリス」


殿下はわたしに向き直った。


「すまなかった」


短い謝罪だった。


言い訳はなかった。


「あの夜、君を公衆の前で傷つけた。君の働きを見ず、君の言葉を聞かず、君が支えていたものを当然だと思っていた」


彼は深く頭を下げた。


廊下にいた侍従が息を呑む。


王太子が、婚約破棄した令嬢に頭を下げている。


その光景は、王宮にとってかなり大きな事件だろう。


「謝罪を受け取ります」


わたしは言った。


殿下が顔を上げる。


「ただし、婚約破棄の違約金、立替金、未払い分、利息は別です」


殿下は一瞬だけ固まった。


それから、疲れたように笑った。


「君なら、そう言うと思った」


「謝罪と清算は別ですので」


「分かっている。財務院に手続きを進めさせる」


「ありがとうございます」


沈黙が落ちた。


以前の婚約者同士なら、ここで何か感傷的な言葉が必要だったのかもしれない。


けれどわたしたちは、もうそこにはいない。


「リリアナを、助けてくれてありがとう」


殿下が言った。


「助けたというより、帳簿を教えました」


「彼女は変わった」


「殿下も、変われます」


自分で言ってから、少し驚いた。


慰めるつもりはなかった。


ただ、リリアナ様が変わるのを見たから、そう思ったのだ。


殿下はわたしを見た。


「君は、私を許せるか」


「分かりません」


正直に答えた。


「でも、許すかどうかと、国の財務を立て直す必要があるかどうかは別です」


「君は手伝ってくれるのか」


「条件次第です」


殿下の目に、ほんの少し昔の癖が浮かびかけた。


当然だと思う癖。


けれど、彼はそれを飲み込んだ。


「条件を、聞かせてほしい」


それなら、話はできる。


「第一に、北境暖房網の復旧を最優先。第二に、慈善基金の調査を公開。第三に、王宮財務の支出優先順位を見直す。第四に、わたし個人への業務依頼は、北境との契約終了後、正式契約でのみ受けます」


「分かった」


「第五に」


「まだあるのか」


「あります。わたしに『戻れ』ではなく、『依頼する』と言ってください」


殿下は、今度こそ完全に黙った。


そして深く息を吐いた。


「エリス・クラウゼル嬢」


彼は、王太子としてではなく、一人の依頼者のように言った。


「王宮財務の再建について、力を貸してほしい」


わたしは少し考えた。


「北境の契約終了後に、見積書を提出します」


「……ありがとう」


そこで、医師が扉を開けた。


「五分です」


殿下は素直に下がった。


廊下の向こうで、カイ様が待っていた。


「話は終わったか」


「はい」


「疲れた顔をしている」


「疲れました」


「なら、休む」


「王宮の資料が」


「休む」


最近、カイ様はこの言葉の使い方が上手くなっている。


わたしは少しだけ笑った。


「承知しました」


その夜、王宮の客室で休むことになった。


かつて使っていた部屋ではない。


小さな客室だ。


寝台は柔らかく、暖炉は適温で、扉には鍵がある。


机の上には、カイ様からの伝言が置かれていた。


明日の作業は午前休。

医師の指示に従うこと。

違反した場合、雇用主権限でペンを没収する。


わたしは伝言を読み、思わず声を出して笑った。


ペンの没収は困る。


だから、休むことにした。

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