第021話 春告げの塔
王宮南庭の地下には、古い塔が眠っていた。
春告げの塔。
そう呼ばれる魔導設備の存在を、わたしは資料でしか知らなかった。百年以上前、長い冬に備えて造られた気候調整用の塔。王都周辺の霜害を防ぐため、地中から温かな魔力を巡らせるものだったという。
だが、維持費が高すぎるため封印された。
少なくとも、公式記録ではそうなっていた。
監査会の広間から南庭へ向かう途中、床は何度も小さく揺れた。
魔導管の奥で、何かが目を覚ましている。
「グレンは何をした」
カイ様が走りながら言った。
「おそらく、春告げの塔を再起動しています」
「何のために」
「南庭温室と王宮の威信を守るため。あるいは、証拠を消すためです」
リリアナ様が息を切らしながら続く。
「塔が起動すると、どうなるのですか」
「正しく起動すれば、王都周辺が一時的に暖かくなります」
「正しくなければ?」
「周辺の魔力を無理に吸います。北境どころか、王都の医療院や孤児院の暖房も落ちる可能性があります」
リリアナ様の顔が白くなった。
南庭へ出ると、地面の中央に亀裂が走っていた。
しおれた薔薇の下から、青白い光が漏れている。庭師たちは逃げ、噴水の水は逆流し、温室のガラスが震えていた。
その向こうに、グレンが立っていた。
彼は数人の慈善局職員を従え、古い制御盤の前にいる。
「止めてください!」
リリアナ様が叫んだ。
グレンは振り返った。
「聖女様。これはあなたのためでもあるのですよ」
「私のため?」
「あなたの花壇は、人々を癒やす象徴だった。王宮が暗くなり、庭が枯れれば、民は不安になる。だから私は、春告げの塔を復活させようとした」
「孤児院や北境の暖房を奪って?」
「大きな善のためには、多少の調整が必要です」
調整。
努力。
効率化。
都合のいい言葉が並ぶ。
「グレン局長」
わたしは制御盤を見た。
赤い数字が激しく流れている。
入力魔力、不足。
外部吸引、拡大。
安全弁、解除済み。
暴走予測、十八分後。
「安全弁を解除しましたね」
グレンは微笑んだ。
「塔は古い。起動には勢いが必要です」
「暴走します」
「あなたの加護による予測でしょう」
「測定器を見れば誰でも分かります」
わたしは制御盤の隣にある針を指した。
針は赤い領域へ振り切れかけている。
慈善局職員たちが青ざめた。
彼らの多くは、グレンに命じられて作業しただけなのだろう。何が起きるかまで理解していなかった。
「全員、制御盤から離れてください」
カイ様が命じる。
職員たちは迷った。
グレンが叫ぶ。
「動くな! ここで止めれば王宮の威信が」
「命より上に置く威信はありません」
リリアナ様の声だった。
彼女はグレンの前に立った。
「私の名を使わないでください。私の花壇のために、誰かを寒くしないでください」
「聖女様、あなたは何も分かっていない」
「分かっていませんでした」
彼女は言った。
「だから、もう人任せにしません」
職員たちが離れる。
グレンだけが制御盤の前に残った。
カイ様が彼に近づく。
「下がれ」
「辺境伯風情が」
グレンは隠し持っていた短杖を抜いた。
魔力が制御盤へ流れ込む。
塔の光が強くなった。
暴走予測、十二分後。
「カイ様、彼を止めてください。わたしは制御盤を」
「任せろ」
カイ様は迷わず動いた。
短杖から放たれた光を外套で払い、グレンの腕を押さえる。戦闘というより、無駄のない制圧だった。
グレンは抵抗したが、北境の領主と王宮官僚では体の使い方が違う。
数秒で短杖が落ちた。
「エリス!」
レオンハルト殿下の声がした。
彼も追ってきていたらしい。
「何をすればいい」
その問いに、わたしは一瞬だけ迷った。
あの夜、この人はわたしを捨てた。
けれど今、彼は王太子だ。
王宮の魔導設備を止める責任がある。
「殿下。南庭地下の旧導管を閉じてください。王族の認証が必要です」
「分かった」
殿下は迷わず走った。
わたしは制御盤を開く。
古い魔導式が、絡まった糸のように複雑だった。地下炉よりさらに古く、増設と改修を繰り返した痕跡がある。
安全弁は解除されている。
外部吸引が広がっている。
このまま完全停止すると、逆流で南庭が吹き飛ぶ可能性がある。
止めるのではなく、流れを逃がして、吸引を段階的に落とす。
「リリアナ様」
「はい!」
「祈りの魔力を、制御盤ではなく、こちらの緩衝石へ。強くなくていいです。一定に」
「一定……」
「呼吸と同じです」
彼女は緩衝石に手を置いた。
白い光がゆっくり流れ込む。
癒やしの魔力は、攻撃にも制御にも向かない。
けれど、暴れる流れを和らげるには向いていた。
「カイ様、第二導管を半分だけ」
「半分だな」
「トマ、測定針を見て。赤から黄色に落ちたら知らせてください」
「はい!」
「殿下、旧導管は」
「閉じた!」
声が返る。
塔の振動が少し弱まる。
暴走予測、十二分。
十五分。
二十二分。
まだ足りない。
わたしは制御輪を回した。
固い。
手のひらに痛みが走る。
前世で、徹夜明けにキーボードを叩いた指を思い出した。
あのときは、誰も止めてくれなかった。
今は違う。
「エリス嬢、交代する」
カイ様の手が重なる。
「いえ、角度が」
「指示してくれ」
わたしは頷いた。
「右へ三度。ゆっくり。止めて。少し戻す」
制御輪が動く。
塔の光が、青白い暴走色から、淡い春のような緑へ変わっていく。
リリアナ様の額に汗がにじむ。
「もう少しです」
「はい」
彼女は歯を食いしばった。
祈るだけではなく、支える。
その姿を、レオンハルト殿下が見ていた。
最後の安全弁を戻す。
針が黄色へ落ちる。
トマが叫んだ。
「黄色です!」
「第三逃がし弁、開放」
空へ向かって、暖かな光が放たれた。
南庭の雪が、一瞬だけ柔らかく溶ける。
塔の振動が止まった。
暴走予測、解除。
わたしはその場に座り込みそうになった。
カイ様が支えてくれる。
「大丈夫か」
「手が痛いです」
「医療室へ」
「その前に記録を」
「医療室へ」
今度は、彼の声に有無を言わせないものがあった。
けれど不思議と嫌ではなかった。
グレンは、騎士たちに取り押さえられていた。
彼はまだ何か叫んでいる。
王宮の威信。
自分の調整。
無知な聖女。
田舎の辺境。
数字しか見ない女。
その言葉は、もう庭に響くだけだった。
南庭の温室の中で、しおれた薔薇が一輪、ゆっくり花びらを落とした。
それでいいと思った。
枯れるべきものまで、無理に咲かせる必要はない。




