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第020話 愛に勘定は必要です

リリアナ様は立ち上がった。


王宮の広間で見る彼女は、北境城にいたときより聖女らしく見えた。


白い衣。

薄桃色の瞳。

祈りの象徴である銀の首飾り。


けれど、手に持っているのは祈祷書ではない。


帳簿だった。


「聖女リリアナ慈善基金について、私から発言いたします」


広間がざわめく。


レオンハルト殿下が驚いた顔をした。


「リリアナ、君は座っていていい」


「いいえ、レオン様」


リリアナ様は、殿下を見た。


「これは、私の名前の基金です」


その声は震えていた。


だが、逃げなかった。


「私はこれまで、基金の詳細を知りませんでした。グレン様から、私の役目は祈ることだと教えられていました。支援は届いていると信じていました」


グレンが穏やかに言う。


「聖女様、あなたを煩わせたくなかっただけです」


「その結果、孤児院の暖炉が寒くなりました」


リリアナ様の声が、少し強くなった。


「北境の暖房網から、魔力が抜かれていました。私の花壇に使われていたかもしれません。私は、それを知りませんでした。でも、知らなかったと言って終わりにはできません」


広間は静まり返った。


彼女は一枚の書面を出した。


「基金名義人として、全帳簿の開示を求めます」


グレンの表情が固まった。


「聖女様、それは事前に」


「事前に何度もお願いしました」


リリアナ様は、手紙の束を置いた。


「これが、私があなたへ送った確認の手紙です。返事はありませんでした」


わたしは続けて資料を出した。


寄付者名簿。

初期帳簿。

後期帳簿。

裏帳簿。

魔力流出記録。


「寄付者名簿の合計と、基金収入記録に差額があります。支援先別内訳は、三か月目以降消えています。さらに、北境と孤児院向け支援の一部が、南庭温室維持費へ転用されています」


「断定は早い」


グレンの声はまだ落ち着いていた。


「裏帳簿とやらは、誰が作ったか分からない。偽造かもしれません」


「そのため、支払い先の証言も用意しました」


わたしは、王都の魔力供給業者の証言書を出した。


カイ様が北境から公証人を通じて集めたものだ。


王宮慈善局の指示により、北境支援名目の魔力を南庭温室へ回した。


差額は慈善局の特別管理費として請求した。


指示者は、王宮慈善局長グレン・バルド。


広間の空気が変わった。


レオンハルト殿下がグレンを見る。


「グレン」


「業者が責任逃れのために嘘をついている可能性があります」


グレンは答えた。


「それに、南庭温室は民の心を癒やすための事業です。聖女様の名にふさわしい慈善でした。多少の融通は」


「多少ではありません」


リリアナ様が言った。


「金貨八千七百枚です」


彼女は数字を噛まずに言った。


初めて会った頃の彼女なら、きっと途中で誰かを見ただろう。


今は、自分で読み上げた。


「グレン様。私は数字が苦手です。でも、金貨八千七百枚が、多少ではないことは分かります」


誰かが小さく息を呑んだ。


わたしは、最後の資料を出した。


北区孤児院の室温記録。

赤ん坊の診療記録。

街道灯停止による荷馬車遅延記録。

北境地下炉の損失率。


「愛に勘定は不要だと、以前リリアナ様はおっしゃいました」


リリアナ様が少しだけ肩を震わせた。


わたしは彼女を責めるためではなく、広間全体へ向けて言った。


「けれど、勘定しなかった愛が、誰に請求されるのかは確認しなければなりません。花壇のために孤児院が寒くなるなら、その愛は誰かの暖炉を奪っています。温室のために北境が凍るなら、その祈りは誰かの命より上に置かれています」


広間の誰も、声を出さなかった。


「慈善は、気持ちだけでは続きません。寄付者、支援を受ける人、管理する人、働く人。全員に説明できる形でなければ、善意は利用されます」


グレンの手が、机の下で握られている。


「だから、愛にも勘定は必要です」


言い終えたとき、リリアナ様が深く頭を下げた。


「私は、それを知りませんでした。これから学びます。そして、私の名前で行われたことを確認します」


レオンハルト殿下は、顔色を失っていた。


彼はリリアナ様を見て、それからわたしを見た。


「エリス……」


その声は、あの夜と違っていた。


怒りではなく、困惑と後悔が混じっている。


けれど、今は個人の感情を処理する場ではない。


カーター財務官が静かに立ち上がった。


「財務院として、慈善基金の全帳簿押収を提案します。また、王宮慈善局長グレン・バルド殿については、調査終了まで職務停止が妥当です」


グレンは顔を上げた。


「カーター、君は自分が何を言っているか分かっているのか」


「分かっています」


カーターの声は震えなかった。


「私はこれまで、見えていた数字を見ないふりをしました。エリス様に多くを任せ、殿下にも強く申し上げなかった。その責任があります」


彼は殿下に向かって頭を下げた。


「殿下。王宮財務は、今の規模を維持できません。見栄の支出を削り、命に関わる支出を優先すべきです」


レオンハルト殿下は、何も言えなかった。


グレンはゆっくり立ち上がった。


「茶番ですね」


彼の声から、穏やかさが消えていた。


「王宮の威信も、聖女の祈りも、辺境の田舎者と婚約破棄された令嬢の帳簿で裁かれるとは」


カイ様が一歩前に出る。


「グレン」


「いいでしょう。帳簿を押収したければすればいい。ですが、王宮がどれだけ私の調整に頼っていたか、すぐに分かりますよ」


その言葉は、ただの負け惜しみではなかった。


わたしの視界に、彼の背後から黒い数字が浮かんだ。


隠し契約。

王宮南庭地下。

春告げの塔。

起動準備、進行中。


「待ってください」


わたしが言った瞬間、王宮の床が小さく揺れた。


南庭の方角から、鈍い音が響く。


グレンが笑った。


「手遅れかもしれませんね」

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