第018話 王宮温室は凍える
王宮南庭の温室は、三日目で限界を迎えた。
季節外れの薔薇は首を垂れ、観賞用噴水は止まり、床の大理石は冷たく曇っている。庭師たちは困り果て、神殿から派遣された見習い巫女たちは、しおれた花を前に泣きそうな顔をしていた。
「なぜ復旧できない!」
王太子レオンハルトは、温室の中央で怒鳴った。
グレン・バルドは、いつもの穏やかな表情で横に立っている。
「北境側が一方的に魔力導管を遮断したためです」
「北境が?」
「はい。辺境伯とエリス嬢が、王宮の承認なく」
レオンハルトの顔がさらに険しくなった。
「またエリスか」
「彼女は、契約を盾に王宮へ圧力をかけています」
グレンは静かに言った。
「殿下。これは、単なる婚約破棄の問題ではありません。王家の権威が試されています」
王家の権威。
その言葉は、レオンハルトによく効いた。
彼は愛を語るが、王太子として扱われることも望んでいる。命令すれば人が動き、謝罪すれば許され、間違えても周囲が整える。
これまでは、そうだった。
「エリスを戻せ」
「戻すには、法的根拠が必要です」
グレンは少しだけ困った顔をした。
「彼女は婚約破棄の記録を公証人に送っています。さらに北境との雇用契約も公開しました。無理に連れ戻せば、王家側が不利になります」
「では、どうすればいい」
「公の場に呼ぶのです」
グレンの声は穏やかだった。
「王宮監査会を開き、王宮財務の混乱、北境の契約遮断、慈善基金への中傷について説明させる。彼女は数字に強い。しかし、公の場で聖女様を責め、王宮を責めれば、民心を失う可能性があります」
「エリスは、そういう女ではない」
レオンハルトは思わず言った。
グレンが少しだけ目を細める。
「では、殿下は彼女を信じておいでで?」
「そうではない」
「なら、好機です」
温室の外で、侍女たちが小さな声で噂している。
エリス様がいた頃は、こんなことはなかった。
医療院は安定しているらしい。
北境では雪祭りが成功したそうだ。
聖女様は北境にいるとか。
噂は、グレンが望んだ方向だけに流れない。
それが彼の誤算だった。
レオンハルトは、しおれた薔薇を見た。
リリアナが大切にしていた花だ。
人々を癒やすための庭。
だが、その花のために北境の暖房が弱っていたと言われている。
「リリアナは、なぜ戻らない」
「聖女様は混乱されています」
グレンは答えた。
「エリス嬢に言いくるめられている可能性もあります」
「リリアナが?」
「彼女は純粋ですから」
純粋。
便利な言葉だ。
何も知らなくていい。
何も見なくていい。
疑わなくていい。
そう扱うための言葉にもなる。
レオンハルトは、わずかに眉をひそめた。
リリアナが北境から送った開示要求書は、王宮にも届いていた。
そこには、彼女自身の署名があった。
聖女リリアナ慈善基金の全帳簿の開示を求める。
以前のリリアナなら書かない文だった。
だが、筆跡は彼女のものだ。
「グレン」
「はい」
「基金の帳簿に問題はないのだな」
「もちろんです」
「ならば、見せればいいのではないか」
一瞬、グレンの表情から温度が消えた。
だが、すぐに微笑む。
「帳簿は複雑です。聖女様が誤解されれば、余計な混乱を招きます」
「誤解しないよう説明すればいい」
「殿下」
グレンの声が少し低くなる。
「今は王家の威信を守る時です。細かな帳簿に振り回されてはなりません」
レオンハルトは答えなかった。
細かな帳簿。
エリスも、いつもそう言われていた。
細かい。
面倒だ。
空気を読まない。
そして、その細かい帳簿が消えた途端、王宮は暗くなった。
温室も凍えた。
「監査会を開く」
レオンハルトは言った。
「エリスとカイを呼べ。リリアナもだ」
「承知しました」
グレンは礼をした。
その顔には、勝算があった。
一方、北境城に届いた監査会招集状を見て、わたしはため息をついた。
「王宮監査会ですか」
イザベルさんが心配そうに言う。
「罠でしょうか」
「罠でしょうね」
「では行かない方が」
「いいえ」
わたしは招集状を机に置いた。
「公の場で帳簿を開ける機会です」
カイ様が頷く。
「北境としても出る。暖房網の件は、王宮に説明させる必要がある」
リリアナ様は、少し青い顔をしていた。
「私も、行きます」
「よろしいのですか」
わたしが尋ねると、彼女は両手を握りしめた。
「怖いです。でも、私の名前の基金です。私が見ないままでは、また誰かが寒い思いをします」
その言葉は、以前の彼女とは違っていた。
わたしは頷いた。
「では、準備しましょう」
「何を準備すれば」
「帳簿、証拠、質問表、そして休憩時間です」
リリアナ様が瞬きする。
「休憩時間も?」
「長い会議では、疲れた人から判断力を失います」
カイ様が真面目に言った。
「王宮はよくその手を使う」
「では、休憩も戦術ですね」
リリアナ様は真剣にメモを取った。
王宮監査会。
そこで、金貨八千七百枚の行方を問う。
そして、わたしが王宮を出てから初めて、殿下と正式に向き合うことになる。
胸は重い。
けれど、今度は一人ではない。
契約書、帳簿、北境の記録、聖女の署名、辺境伯の証言。
そして、ルルが見つけた裏帳簿。
猫の貢献は、証拠一覧には書きづらい。
だが、あとで干し肉は支給する。




