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第016話 聖女様は帳簿室に入りたい

リリアナ様が北境へ来た。


その知らせを受けたとき、わたしは一瞬だけペンを落とした。


聖女リリアナ。


王太子殿下に選ばれた人。


あの夜、広間でわたしに「愛に勘定は不要」と言った人。


その人が、王宮の護衛ではなく、神殿の小さな馬車で北境城へ向かっているという。


「危険ではありませんか」


イザベルさんが言った。


「王宮側の策略かもしれません」


「その可能性はあります」


「迎え入れるのですか」


わたしは手紙を見た。


リリアナ様から届いた三通目。


私は、自分の名前で何が行われたのか知りたいです。

王宮では帳簿を見られません。

祈るだけでは、寒い部屋は暖まりませんでした。


文字は前より少しだけ強くなっていた。


「迎えます。ただし、会議室で。記録係同席。発言はすべて記録します」


「徹底していますね」


「相手を守るためでもあります」


リリアナ様が本当に協力するなら、記録は彼女を守る。


嘘をつくなら、記録は嘘を残す。


どちらにしても必要だ。


夕方、神殿の馬車が到着した。


降りてきたリリアナ様は、王宮の夜会で見たときより小さく見えた。


白金の髪はきちんと結われているが、顔色は悪い。薄桃色の瞳には疲れがある。


派手な宝石は身につけていなかった。


代わりに、腕に古い書類鞄を抱えている。


「エリス様」


彼女は深く頭を下げた。


「突然押しかけて、申し訳ありません」


「中へどうぞ。寒いでしょう」


リリアナ様は少し驚いた顔をした。


わたしが冷たく追い返すと思っていたのかもしれない。


正直に言えば、わたしも自分がどう反応するか分からなかった。


怒りはある。


傷もある。


けれど彼女は今、寒い外から来た人だ。


まず暖かい場所へ入れる。


それだけは、迷う必要がない。


会議室で温茶を出すと、リリアナ様は両手で杯を包んだ。


「王宮の帳簿室へ入ろうとしました」


彼女は、すぐに話し始めた。


「でも、グレン様に止められました。私は数字が苦手だから、間違った理解をしてしまうと」


「それで」


「なら教えてくださいと言いました。でも、祈りの務めに戻りなさいと」


リリアナ様は鞄から書類を取り出した。


「これは、私の手元に残っていた寄付者名簿です。基金設立時に、直接お礼状を書くため預かったものです」


名簿には、寄付者の名前と金額が並んでいた。


小額寄付も多い。


商人、職人、孤児院出身者、兵士の家族。


聖女の名に期待して、少しずつ出した金だ。


「この合計と、基金帳簿の初期収入が合いません」


わたしが言うと、リリアナ様が顔を上げた。


「やはり?」


「はい。こちらの名簿の方が多いです」


「足りない分は、どこへ行ったのでしょう」


「調べます」


彼女の手が震えた。


「私は、何も知らなかったと言えば許されるのでしょうか」


会議室が静かになった。


カイ様も、イザベルさんも、何も言わなかった。


わたしはリリアナ様を見た。


「許されるかどうかは、わたしが決めることではありません」


彼女の瞳が揺れた。


「ただし、知らなかったことと、知ったあとに何をするかは別です」


「私は……何ができますか」


「自分の名前で作られた基金の帳簿を見る権利を主張してください。寄付者に説明する責任があると、書面にしてください」


「書面」


リリアナ様は少し怯えた顔をした。


「私、書類は得意ではなくて」


「得意でなくても、読めるようになります」


「エリス様が教えてくださいますか」


その問いに、胸がちくりとした。


この人は、わたしから婚約者を奪った人だ。


少なくとも、あの場ではそうだった。


けれど今の彼女は、王宮の中で「祈ればいい」と言われ、数字から遠ざけられ、名前だけを使われた人でもある。


「教えます」


わたしは言った。


「ただし、甘くはありません」


リリアナ様は、泣きそうな顔で笑った。


「はい」


その日、聖女様の帳簿講座が始まった。


第一回の内容は、収入と支出の違い。


リリアナ様は最初、寄付金の合計だけで目を回しそうになった。


「数字がこんなに並ぶと、祈りたくなります」


「祈る前に、桁をそろえてください」


「はい」


「金貨、銀貨、銅貨を混ぜない」


「はい」


「同じ名目の支出は、支援先ごとに分ける」


「はい……」


リリアナ様は真剣だった。


不器用だが、逃げなかった。


途中でルルが机に乗り、寄付者名簿の上に座った。


リリアナ様は目を丸くした。


「猫さんが……」


「監査補助です」


「監査補助」


「資料を隠す者を見張ります」


ルルは何もしていない顔で尻尾を振った。


講座の終わりに、リリアナ様は一枚の書面を書いた。


聖女リリアナ慈善基金の名義人として、全帳簿の開示を求める。

寄付者および支援対象者に対する説明責任を果たすため、収支の照合を行う。


署名、リリアナ。


彼女はペンを置き、深く息を吐いた。


「これで、何か変わるでしょうか」


「変わります」


「本当に?」


「書面は、沈黙より強いです」


リリアナ様は、その言葉を大事そうに繰り返した。


「書面は、沈黙より強い」


その夜、彼女は北境城に泊まった。


王宮へ戻れば、グレンに止められる可能性が高いからだ。


客室へ案内される途中、リリアナ様が小さく言った。


「エリス様」


「はい」


「あの夜、本当に申し訳ありませんでした」


わたしはすぐに返事をしなかった。


廊下の窓の外では、雪が降っている。


「謝罪は受け取ります」


彼女の顔に、少し安堵が浮かんだ。


「ただし、許すかどうかは保留します」


リリアナ様は驚き、それから真剣に頷いた。


「はい。保留で、お願いします」


変な返事だった。


でも、少しだけ笑ってしまった。


帳簿にも、保留勘定というものがある。


すぐに分類できないものは、無理に処理しない。


時間をかけて、正しい科目へ振り替える。


人の感情も、たぶん同じでいい。

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